中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

水谷八重子こと水谷良重

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(19)ー(悲劇喜劇2020年11月)

 5、6年前六本木の角の雑踏の中で私を見付けたのは良重の方だった。私は車庫に入れた車を出してきて乗せて貰う所だった。人ゴミの中でも良重は相変らず華やかさを失わず、背が高いから人より頭一つ抜け出て笑っていた。

「何よこんな所で、高校生じゃあるまいし。」

 大きな声で悪たれ口をたたくのも昔と変らない。なつかしさがこみあげた。

「よおしばらく、水谷八重子なんてなっちゃって縁が遠くなったねえ。」

「何よ、良重でいいのよ、あたし本名好重なんだから。」

「そういやそうだ。」

 歩道のヘリで話していると急に昔のことを思い出した。同じ様な状況で歩道で話をしていたのは50年以上も前の、有楽町にあった日劇の前の歩道だった。但し良重はほとんど裸で、頭とお尻に真赤な長い羽根を思い切り沢山くっつけ、ブラとパンツとヒールのブーツにはスパンコールと光る宝石粉いのものがキラキラと輝いていた。その格好で人の行き交う有楽町の日劇前の歩道に立っているのは、若い娘がということもあって真に妙であった。

 地震があったのだ。私は日劇の良重のショウ場面の舞台稽古を見ようというので日劇の客席に居た。とその時稽古中にかなり大きめの地震が来た。稽古はストップ。同時に良重は舞台から客席に跳び下り、客席の通路をもの凄い勢いで走って来た。通路の際に座っていた私の腕をつかむと叫んだ。

「怖え逃げよ!」私も地震は大嫌い。半分腰が浮いてたところだから一も二も無く一緒にそのまま表へ飛び出した。私は背広だけど良重は完璧なショウガールの格好。 地震は外へ出てみると大した事無く収まって、表の通りは何時に変らぬ有楽の雑踏。 あらあ、とあたりを見廻して、改めて良重の格好に気づくも良重はまだガタガタ震えている。メイクも派手だから顔色は分らないが多分真青だったろう。

 余程の地震嫌いと見えると笑って、もう大丈夫収まったよと中へ入る様にうながすが良重は頑として入らない。 余震が来ると云うのだ。良重が何処へ行ったか、中でスタッフが心配してるだろうと、私は良重を置いて一人中に入り、前の歩道に良重は居るよと皆に教えて歩道に戻ったら居ない。良重は消えた。

 後で聞いたら、新築で建物の丈夫な帝劇に、裏通り伝いに歩いて避難したとのこと。

 私はそれを聞いて、あの格好のまんま?と笑ったが、あいつならやりかねないとも思った。良重の変っている所は、終始劇場の外に居て、頭とお尻に一杯の赤い羽根を飾って裸の様なその姿で、全然人目を気にしない、一種の天真爛漫な怖いもの知らずだ。

 大体良重と初めて出会ったのは、こっちが帝劇9階の稽古場の控室で、何やら難しい仕事をしている最中、1階からずっと通ずる階段の方から、「バーン」とか「バキューン」と異様な男女の声がして来た時だ。声の主は、今を時めくスター女優でありショウガールである水谷良重と、歌舞伎の若手俳優として人気絶頂の時代だった片岡孝夫だった。2人は手に手におもちゃの銃を構えている。おもちゃの銃は音は出ないが、引金を引くとビヨンと弾は飛ぶ。2人は弾をつめかえつめかえ、音の出ないかわりに、「バーン」とか「バキューン」とか口で音を出して、互に打合いながら階段を9階迄上って来たのだ。

 私は両手を拡げて2人が稽古場に入るのを禁じた。稽古は、自分は怒鳴りまくるくせに稽古場の静寂については人一倍神経質な蜷川幸雄の稽古中だ。そんな所へ入って来て、「バキューン」なんでやられてはたまらない。

「良重さんも孝夫さんもこっから先は駄目。下へ行って楽屋でやんなさい。」

 2人はバーン、ダーンと叫び撃ち合いながら階段を下りて行き、6階あたりで誰か偉い役者の楽屋に侵入して追い出されていた。

 良重も孝夫も20代も後半の頃である。この子供っぽさはどうだろう。

 子供っぽさ余っていたずらが過ぎ、毎度幕内を騒がせたのが良重だ。

 何のどういういたずらで我々スタッフが、勘弁ならねえとなったのかどうしても思い出せないのだが、兎に角宝塚劇場の公演で、第一部幕開けにショウがあったのだから、 長谷川一夫さんの「東宝歌舞伎」の公演だったのだと思うが、いっぺん良重をこらしめてやろうという話にまとまった。 そうなると話は早い。たちまち企画は成立し、各々が下ごしらえに走った。首謀者は私だ。私はこういう事には天才的な才能を発揮する。

 良重は第1部のショウの幕開け、文字通り緞帳の上がると共に、ジャンジャンジャン・ジャンジャカジャッジャジャー、思い切り派手な開幕のオーケストラ音楽と共に、赤い大振袖で踊り始める。舞台の真中、数十名の踊り手を従えて、ピンスポットで抜かれている。それがこの舞台の幕開けだ。良重が踊り始めると同時に音が鳴り、緞帳が上がる。 責任重大であるし、役者冥利に尽きるだろう。良重は毎日張り切って踊っていた。

 私はこの幕開けを使ってひとつ仕掛けを打つことにした。先ず音響さんに計略を説明し、業務用の大型テープレコーダーを1台借りる。その頃のことだ古いオープンリールのテープレコーダーだ、やたらと重い。それを音響効果の若い人達に、客席後ろの音響室から舞台3階上手の良重の楽屋前の廊下に選んでもらう。その頃宝塚劇場は生のオーケストラで公演してたから、開幕時良重が踊るジャンジャカジャッジャジャーは、あらかじめ録音しておいてもらう。

 次に3階の楽屋の者全員に、事の次第を良重にバレない様にひそかに耳に入れて置く。でないとパニックになったら大変だ。みんな喜んで協力を約してくれる。最後に舞台事務所に話を通して置く。幕内支配人の森元さんも、舞台事務所の名物男太田のおっちゃんも、それは面白いやろうやろうと大賛成である。

 作戦決行当日劇場には緊張が満ちた。 良重にバレてないかバレてないか。バレてない。

 いよいよ決行の時、開演20分前、良重が楽屋で大振袖を衣装さんに着せて貰っている、着付時間がその時だ。

 いつもの通り演出部が一斉放送をマイクで入れる。 出来るだけ無機的にいつも通りに。

「ウー、只今開演三十分前です。三十分前です。」

 3階の他の楽屋のれんから出る期待に満ちた顔、顔、顔。

 良重の楽屋入口の脇の廊下には大型業務用テープレコーダーがチャンと設置されている。そこには若手の音響さんがキチンと位置に付いている。

 10分が過ぎようとしている。楽屋の内をそっと覗くと良重は鼻歌まじりで今帯を締めてもらっている所。今だ。 私は音響さんにキッカケを出した。オープンリールのテーブが廻り始める。

 ジャンジャンジャン・ジャンジャカジャッジャジャー。 宝塚劇場中村兼藤さん指揮のオケの大音響が3階の廊下に鳴り響いた。 いつもはこの音で緞帳が上がり良重が踊る。

 次の瞬間凄まじい勢いで帯を半分締めた良が飛び出して来た。何か意味不明の事を口走っている。帯を後ろに長く引きずったままエレベーターに走って忙しくボタンを押す。 エレはなかなか来ない。良重は帯を引きずったまま横の階段を転げる様に駆け下りて行った。

 やった。大成功だ。周囲の楽屋から爆笑と拍手が湧き起こる。

 私は良重と同じ様に動転した衣裳の村のおばちゃんにテープレコーダーを見せて説明し平あやまりに謝まり、急いで良重の後を追った。下りたその場所が舞台の上手。開演前の舞台はガランとして跡の小道具部屋の入口の所で小道具さんが将棋を指している。

 良重はそのガランとした上手の舞台袖に茫然と立ちつくしていた。長くを引きずったまま。

 色々いたずらもやったが、ここ迄大成功することも珍らしい。 舞台事務所の入口ではみんな中から半身乗り出してゲラゲラ笑いながらこっちを見ている。

 「おや良重ちゃん、どしたの。まだ下りてくるの早いのに。」

 「チクショー、テメー、やりやがったな! 見てろよ!」

 私は横っとびに逃げて楽屋口から外へ飛び出した。

 大成功したがこれは高く付いた。

 私はジャケットを脱いで舞台事務所の椅子の背中に架けておいたのだがこれが油断だった。

 私が表からへ戻ったのはもう第1部が終った休憩時間だった。良重は第2部の芝居の衣裳化粧の替えがある、安全安全と呑気に戻ったら舞台事務所の手前からもう異様に強い香水の匂いがする。事務所ではみんなバタバタと何かで扇いで空気を外に出している。太田のおっちゃんが扇風機を両手に持って風を外へ出しながら、顎をしゃくって私のジャケットを示した。事務所の中は部屋中に満ちるとんでもない強い香水の匂いで満ち満ちていた。発生源は私のジャケットだ。

 聞けば良が下りて来て鼻息も荒く呪いの言葉を吐きながら、一瓶の香水をまるまる、私のジャケットに吹きかけたとのこと。香水は私も知ってるとりわけ匂いの強い”ミル”だった。とりあえずジャケットを着替え室のロッカーに閉じ込めたが、そんな事では匂いはとても収まらず、第2部でその部屋を使った出演者が、口々に何やこの匂い、どうしたんこれと聞いて来た。

 そのジャケットは私が夫先生から拝領した英国製の上物で、大事にしていた。 洗濯屋に出せば消えるかと待ったが、帰りの地下鉄は大変だった。私の囲りの数人特にオバサン方が、凄い非難の目で私をにらみ、私はジャケットを小さく丸めて車内をあちこち移動した。

 洗濯屋に2度出しても匂いは全然消えなかった。ジャケットは没にするよりなかった。

 私と良重は双方互いにザマアミロで手打ちにすることにした。

 

 菊田一夫が亡くなった日、もう人工呼吸器を付けられて、植物的になってしまった時間帯、慶応病院の病室でベットを囲む東宝の社員の面々の中に私も居た。長い沈黙の時の中突然ドアが大きく開いた。良重だった。叫ぶに、訴える様に、私たちに云った。

 「ほんとにもう駄目なの?どうにかなんないの?この先なんかあったら、誰に相談したらいいのよ。」

 可愛い女である。

#演劇 #プロデューサー  #水谷八重子 #水谷良重

金子信雄 ガキ大将

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(18)ー(悲劇喜劇2020年9月)

 金子さんと深い付合いになったのは、それでも何本か芝居を共にした後、小幡欣治の喜劇「にぎにぎ」なんて喜劇を宝塚劇場でやってヒットした後、芸術座で矢張り小幡欣治の「女の遺産」という語をやってそこそこの当りをとり、それを大阪へ持って行った時、金子さんと歴史に残る大論争をやってからだ。大論争は周囲が皆が覚えている位口角泡を飛ばし互に距離は一米以内に近づき、時に険悪になる位の真剣目興奮状態のものであったが、しかしテーマは演劇では無く哲学でも宗教でも政治でも無く、それはジャガイモなのであった。

 「女の遺産」大阪公演は、少人数で座内にモメ事もなくのんびりと進行して客の入りも良く、私は心配事の何も無い旅公演の良さに、命の洗濯とばかり神経のネジを全部弛めて、毎日のんびりのあまり楽屋の賄いに、フランス滞在中習い覚えた “ポ・ト・フー”を作ることにした。“ポ・ト・フー”はフランスの全くの家庭料理で、牛のスネ肉の大きなかたまりを、玉ネギ、人参、かぶなどと共に煮込む。 味付けに何も入れない、塩さえ入れない。塩はテーブルで出来た皿にふりかする。いわば“おでん"の様なもので、まことに簡単、大量に作れ、料理の素人がやっても間違いが無い。私は大阪の街をめぐって、結構入手の難しいスネ肉のかたまりをやっと見付け、次いで至難の業であった、玉ねぎに刺す “ジロッフル“(クローヴ)をやっと高島屋で発見して、舞台の奈落で料理にとりかかろうとした。 と、頼みもしないのにそこに現われたのが金子信雄である。

 金子さんは、文学座からデビューして、後東映のヤクザ映画路線でヤクザの組長役がブレイクしてメジャーになり、丁度その頃は趣味の料理が高じて、テレビで自ら創作した料理を紹介する、”金子信雄の楽しい夕食〟という連続放送の番組が評判となって、“料理の金子信雄"としても評価を確立していた。おまけに荻窪でフランス料理屋を開いてそのオーナーになるなど、「僕は役者で売れなくなっても、これがあるから。」などと人差指を包丁に擬して料理の恰好をするなど、料理についてはウルサイ存在だった。それが現れたのだ。私が私の“ポ・ト・フー”にとりかかるその時に。

「中根さん、ポ・ト・フーやるんだって?材料あったかい。」

「牛のスネ肉のカタマリありましたよ。 やっとめっけました。 大阪じゃ肉をカタマリで料理するってことないんですかね。肉屋のオヤジがスネ肉のカタマリ、へぇ2キロのカタマリ?へぇ? 何しまんのそんなん。とか云やがって。」

「あはは、こっちはコマ切れにでもするしかないんだろ、スネ肉は。よくあったね。で野菜は?」

「勿論玉ネギ、ニンジン、カブ、こりゃ簡単でしたよ。」

「え、そいでジャガイモは?」

「ジャガイモ?そりゃいらないでしょ。」

「ジャガイモ要るよお、ジャガイモ無きゃポ・ト・フーにならないじゃないか。」

 この一言にカチンと来た。 39分に及ぶ大論争はここから始まったのだ。向うはフランス料理屋のオーナーを笠に着て、何とポ・ト・フーにジャガイモを入れると暴論を仕掛けて来る。私はフランス滞在3年の面子にかけて譲れない。

「ポ・ト・フーはジャガイモを入れるから旨くなるんだ。入れなきゃ目だよ」

「ジャガイモを入れるポ・ト・フーなんて、フランスに3年居て、ポ・ト・フーをずっと食ってたけど聞いたことない。肉ジャガ作るんじゃないんだから。 大体ジャガイモなんて入れたら肉も何も全部イモ臭くなっちゃう。 イモは入れません。入れるのは玉ネギと人参とカブだけです。でなきゃジロッフルの香りが台無しだ。」

 金子さんも肉ジャガの一言にいたくプライドが傷ついたらしく、ムキになった。

「そんなんなら俺は手伝わねえ、味見をしてやろうと思ったんだが。」

 そんなこと誰も頼んでないよ金子さん。

 パリの屋根裏の下宿で3年間、アラディンのストーヴの上で何回ポ・ト・フーを作ったろう。1回作れば3日は保つ。3日食い延ばして野菜を継ぎ足せば5日は保つ。こうして私はパリの貧乏学生の生活を乗り切った。何のテレビの料理番組如き、私のポ・ト・フーは筋金入りなのだ。

 そして私は論争に勝ち、私流というかフランス流のオリジナル版ポ・ト・フーを作った。

 昼の部に作り始めて夕方夜の部の開演にかかってやっと仕上がった。

 金子さんは来るでもなく食うでもなく、ウロウロしていたが、遂には好奇心抑え難くという様子で入って来て一皿食った。

「ウン、これはこれでウメエか。スープがまあいい。」

 以来金子さんとは仲好くなった。

 それから何年か経った。その間金子さんと益々多く仕事をする様になった。 蜷川幸雄の東宝デビュー作というか大劇場の日生劇場デビュー作シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』にも出てもらった。役はロレンツォ神父だった。東映のヤクザの組長から小幡欣治の「にぎにぎ」の田舎政治家、ロレンツォ神父とレパートリーの幅広さは驚くばかりで、その頃のある日蜷川から電話で、「今金子信雄と西村晃が来ててよ、『ゴドーを待ちながら』2人でやるから演出しろって云うんだけどどうしょうか」と云うのでびっくりしたがある。何をやっても上手くはまるこの役者を私頼りにして、その内奥さんの丹阿彌谷津子さんとも仕事上近しくなり夫婦ぐるみで付合った。

 その頃、Aという評論家が居て、私は天敵として嫌った。蜷川幸雄が未だ有名になる前の時期の事、Aは毎公演これでもかという程悪評を書いた。一方自分が親しい演出家・劇団の仕事は、鳥肌が立つくらい誉め言葉を逃れるという評論家だった。

 金子さんと話している時、その男の話が出て、私はああいう奴は殴るしか無い、いつかどっかで出会ったらやってやろうと思うと云った。私と同じ東京市下谷区の生れである金子さんはこういう話にすぐ乗る方だ。

「そうだな、あいつは殴るっきゃねえな。」

 ある朝私の家に電話がかかって来た。金子さんだ。

「おいAの奴な、タベ帝国ホテルのバーで会ったらあんたの云う様にやな奴だから、一寸締めといてやったよ。」

「え、え、どうしたんですか。殴ったんですか?」

「いやな、椅子から引きずり下して、馬乗りで何発か殴って、その辺にあった果物ナイフを首に当てて脅かしたら、 たすけてたすけてって泣き声出しやがった。」

「そういう時は金子さんその時に電話下さいよ。タクシーで駆け付けて参加するから。いい場面を見損なった。」

「今度からそうするよ。でもあんたの分もやっといたんだから。」

 山口の田岡組長が、金子さんの映画の組長を見て、「あらあモノホンや」と云ったという逸話があるが、モノホンのヤクザ並みの迫力で脅されたAも、さぞ怖かったろうと思うと可笑しい。

 金子さんとはよく呑みもした。陽気で、昭和の時代の人によくあるハチャメチャな酒だった。

 大阪だったか名古屋だったか、もう記憶が定かではないが、芝居の公演がハネた深夜4、5人で金子さんに奢って貰ったことがある。 オカマバーだった。金子さんはそういう連中をからかいながら呑むのも結構好きだった様だ。オカマ達にはえらく人気があり、 一座は盛り上って金子さんはいかさか盛り上り過ぎた。小道具さんの若い少年が一緒に来ていたのを、オカマ達に手込めにしろと命じて大騒ぎとなり、少年は殆ど命がけで半泣きになりながら、3人の屈強なオカマ達に折重なる様に組み敷かれ、今しもズボンを脱がされそうになるのに抵抗してた。金子さんは東映の方の目付きでそれをニヤニヤ眺めていたがやおら杯を置くと、大騒ぎの方へつかつかと歩み寄りビシリと云った。

「いい加減にしてやりな。」

大した貫縁だ。 オカマ達はささっと少年を解放し首うなだれて席に戻る。

 そしたら金子さんは云った。

「どうも呑み足りねえ。水割りだとかこんなもん呑んでるから駄目なんだ。今から俺が酒の呑み方を教えてやろう。」

 そして突如水の入ったバケットにウィスキーを瓶からドボドボと丸ごと注ぎ、ガシャガシャと両手で持ってかき廻しで、ゴクゴクと呑んだ。

「これを廻してな、みんなで呑むのよ。いいかい。」優しく教師が生徒に教える様に云ってバケットをとなりに廻す。みんなこわごわ呑む。

 一同したたかに酔っぱらったのは云うもない。

 したたかどころではない。ベロベロに酔ってバーを出た。金子さんは足元もヨロヨロで今にも腰を抜かしそうだ。私は当然ホテルを送ることになる。深夜も1時頃ホテルのロビーはガランとしてフロントのスタッフが1人2人ニヤニヤこっちを眺めている。その内の1人が寄って来て云った。

「金子様大分お呑みの様ですね。こんなにというのはお珍しい。 部屋迄お見送りお手伝いしましょうか。」

幸いにも私は“お手伝い”を断って、金子さんの腰を支えながらエレベーターで上階に上った。広い廊下のベージュの絨毯につっかえて時々倒れそうになるのを後ろから腰を抱いて支えてあげる。

 すると突然、金子さんが私の手を離れて突進した。前のファスナーを開けて、一物をとり出した。

「エヘヘエ、見てろ。」

絨毯に派手にオシッコをまき散らし出した。

「金子さん、何すんのやめなさい。」

「うるせえ、どいてろ。」

 オシッコをまき散らしながらヨロヨロと歩いている。

 結局判ったのは、このジイサン、オシッコで廊下にかねこと大書していたのだ。

 私はあわてふためいたけど止め様もない。年寄りのオシッコは長いけど私には5分も続く様に思え、さっきの ”お手伝い”しようというスタッフが上って来ない様、オシッコの間ひたすら心中祈った。

 翌朝早く私は夕べの呑み会の一部始終を、金子さんの女性マネジャーに詳しく、厳然と話し、特にホテルのかねこの件は、ホテル側にバレて何か云って来るかも知れないので念の為と思って伝えた。

 その夜の公演で会うと、金さんは母親にしかられた子供の様に悄気かえっていた。

「どうしたんです金子さん、きのうの酒は面白かった。でも一寸やり過ぎでしたよ。」

「それでうんと怒らいた。丹彌さんから電話かかってきた。怖かった。

 これ以上無い位悄気で、ケンカに負けた上に親に叱られたガキ大将の様だった。

#演劇 #プロデューサー  #金子信雄

山田五十鈴 どっちにしても怖い顔

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(17)ー(悲劇喜劇2020年7月)

 「中根さん 今度の芝居はね、私、大震災に会ったと思ってあきらめることにしましたから。いえ私はひと通りのことはシゲさんと一緒にキチンとやりますけどね、アハハハアー。」

 初日の入りの楽屋口でアッケラカンとこんなことを言われたら、プロデューサーは何と挨拶を返したらいいのだろう。私は大儀そうにゆっくりとエレベーターに向かって行く山田さんの後姿を目で追いながら絶句したままだった。

 帝劇の芝居「夢は巴里か倫か」でのことである。川上音二郎と貞奴を森繁久彌と山田五十鈴でやったこの芝居は脚本のことで大もめにもめた。私のせいではない。前任の津村ブロデューサーが、芸術座とかけもちをしていて、こなし切れず、作家・演出家(木村光一)も役者も全部決まった状態で

私に丸投げしたのだ。私は東宝の社員だったから、業務命令でいやも応もなく引き受けさせられた。

 作者は東宝演劇部所属作家のY氏で、いささか荷が重かったのか、どうにもこうにもという本が出来て来て、例の如く書き直す時間は無し、舞台稽古になだれ込んで、現場は徹夜の連続。 森繁さんは舞台稽古中の深夜に私と木村光一を楽屋に呼びつけて当り散らすという地獄絵図になった。「ワシら役者はねえ、今月8万人の客の前に立つんだよ、それを分っとるのか。」

 その挙句の初日の楽屋口である。私としても云い訳の仕様がない。それにしても大震災は参った。勿論東日本大震災より遙か昔の話であるが、山田さんは関東大震災も東京大空襲も知っている。今度の芝居はそんなものか。

 冒頭のセリフの時の山田さんは怖かった。口元は笑いをたたえていたが、目は私を射竦める様に鋭く、有無を言わせぬ目だった。

 顔の下半分も怖くなる様な真の恐ろしい顔を、山田さんが芸の上で以外の顔で見せることはめったに無かったが、その逆鱗に触れた誰かを拒否し追放する時の山田さんは怖かった。それが役者の誰かであれ、作家の誰かであれ、長い間出入りしたマネージャーの類いであれ、それこそ顔色も変えずに、ついでの様に付合いを止めたことを宣言した。

「ああそれから某さんねえ、あの人私今後関係ありませんから。あなたも相手にしないで下さい。」

 そして全く顔色を変えず、フイと別の話題に移る。いつもゆったりとした余裕の笑顔で。

 山田さんの芝居は演技というよりあくまで芸であった。それを思うとき、付人の京ちゃんから聞いた話は興味深い。山田さんはライヴァルとして見た時、杉村春子さんは怖くない、水谷八重子さん(先代)も怖くない、只京マチ子さんは怖い。というのだ。

 矢張り京ちゃんから聞いたのだが、山田さんと京ちゃんと2人で帝国ホテルに泊まっていた時、明け方4時頃の暗い中、バサッバサッという異様な物音に京ちゃんが目を覚ますと、音の源は山田さんで、暗がりの中を衣装の打掛けを捌く稽古を独りでしている物音だったとのこと。その時の薄闇の中の山田さんの顔の恐ろしさに京ちゃんは毛布をかぶって震えていたという。

 芸人の精進がどうの、芸の厳しさがどうのと、人は手軽に云々するが、私は山田さん程妥協無く、孤独にそれを人知れず追求していた役者を他に知らない。

 「たぬき」という山田さん主演の芝居が芸術座で大当りをした。私はプロデューサーを務めた。この芝居のプロデューサーだったことを私は今でも誇りにしている。

 「たぬき」というのは明治から大正にかけて寄席の三味線俗曲の名人として知られた立花家橘之助を劇化したもので、“たぬき”は劇中十分間に渉って山田さんが三味線を演奏し且つ唄う曲目の名でもある。

 芝居も、劇場全く1席の空席も無く、東宝の重役が何とかどうにかしろと云っても1枚もチケットが無いという異常な大当りであったが、この劇中のたぬき”の10分間に及ぶ演奏の迫力無しにはこの大当りは語れない。

 私はこの場になると監事室に入って必ずこの10分間の演奏を毎日確認した。

 山田さんはこの場の演奏が終って引っ込んで来ると、精魂尽きた様に三味線を重たげにしかし必ず自分で抱えて、どったどったと足を引きずる様な独特な歩き方で楽屋への廊下を歩いて来る。

 そうした或る日、私は監事室を出た所で引っ込んで来る山田さんと鉢合せした。ねぎらいの言葉を1言2言口にしながら、ふと山田さんの手にした三味線に目が行って、私は吾が目を疑った。三味線の糸が三弦とも真赤なのである。更に棹まで全体に何やら赤く光っている。 いぶかって目を近づけると、山田さんはニヤリと凄い顔をして笑い、左手の指を拡げて私に見せた。驚愕した。血だった。左手の指も、三味線の糸も、血に染まっていた。

「切っちゃったんですよ。指を、糸で、」

 10分間の演奏である。指の出血にしては大量だ。何より演奏しながらのその痛みを思うと私はあわてた。

「痛かったでしょう。夜の部は医者を呼んで痛み止めでも打ってもらっては......。」

「いりません!噂になると嫌ですし、三味線の弾きに障りがあってもいけません。自分でどうにもしますから。」

 そこで山田さんはとりわけの厳しい顔になった。 能面のなにかの様な顔だ。私は恐怖を覚えた。

「中根さん、この事はどうぞどこの誰にも云わないで下さい。演出部にも云わないで下さい。 恥ずかしい事ですから。私が未熟なんです。」

恐ろしい顔のままそう命じると私を押し退けるようにして楽屋へ歩いて行った。その後姿は肩を落とし、三味線を重たげに抱えて、魂の抜けた様だった。

 しかし楽屋に行くと人が変った様になるのもこの人の特技だった。

 妙なことに凝る癖があった。世間で紅茶キノコが流行ると凝りに凝って芝居にはいつも絶やさず、訪問する客にもすすめ、付人の京ちゃんは一升瓶に仕込んだ紅茶キノコを大事そうに抱えて、小柄な人だったから自分の身に余る様な一升瓶と、大柄な山田さんの後でヨチヨチと付き従っているのが可笑しかった。

 又一時期大いに凝っていたのが、焼酎のミルク割りで、これを、終演するや楽屋でガブガブとやり、周りの人にもさあ呑めやれ呑め身体に良いからと無理強いにすすめた。それはいいとして、その身体に良いからと固く信じているのが困ったものだった。

 金原亭馬の助師匠は温和な渋い落語家で、この「たぬき」の公演にも渋い落語家の役所で出ていたが、この頃身体の調子が悪いと、出番が終ると楽屋で横になってばかり居た。

 山田さんはそれが気になると、居ても立っても居られず、たちまちミルクの焼酎割り、山田さん言う所の”ミル酎”を強力にすすめた。

「馬さんこれね、ミル酎、これが身体にいいのよ。どうぞお呑みなさいな、いえミルクだから。身体にいいから。」

「いえ一寸工合が悪いんで、私あんまり酒は…」

「いえ、それがミルク割りだから、ほんとに身体にいいんですよ。お呑みなさいな。ダーッと。ね。」

 いやがる馬さんに無理強いミル酎を何かませてしまった。

翌日私は山田さんの所へ注射を打ちに通って来る看護婦さんに、馬さんを着て貰った。

 看護婦さんは馬さんの瞼を見るなり顔色を変えて私にささやいた。

「これはすぐ病院へ行った方がいいかも。」

 その翌日私は馬さんに付添って大きな病院へ行った。担当の医者は、色々な検査の後に、写真を見ながら事も無げに言った。

「これはもう末期の肝臓癌で、周りにも転移してるし、手の打ちようありませんね。アト3ヵ月位ですか。」

 愕然。帰りの車の中で私は馬さんの顔を見られなかった。帰って馬さんは翌日入院、代演は宮口精二と決め、一門の志ん朝さんにも話して、最後に終演後山田さんの楽屋に行って次第を話した。山田さんが最初に口だったのは、“ミル酎”の事だった。

「嫌だ、私、馬さんにミル酎呑ましちゃった。身体に良かったかしらねえ。」

 山田さんが本当に失敗した、という顔をしたのを初めて見た。

 馬さんは3ヵ月後に矢張り亡くなった。

 山田さんは芸術祭の文部大臣賞を獲得して、「たぬき」は2ヵ月の公演を終え、狂熱的な大入りを記録した。 山田さんの“たぬき”は巷の大評判となり、テレビの出演や録画が相次いで一種の社会現象となった。私は、こういう芝居をやっている限り、歌舞伎や新劇やミュージカルに対し、我々は存在意義を失っていないと思った。

 空前の大ヒットの故に「たぬき」は大阪にも売れて、我々スタッフはその頃精神的余裕も出来て、大阪滞在を楽しんだ。

 山田さんの指はもうタコが出来る位になっていたのだろう。別段の事故は起きなかった。山田さんは毎日御機嫌で芝居をやるのが楽しくて仕様が無いという様子、みんなも古志ん朝や江戸屋猫八など寄席系の人々が出演しているからか、明るく楽しく上機嫌で、一座はいつも洒落や笑いに彩られてその日が始まるのだった。

 山田さんはこの手の、誰と誰が妖しいとか昨夜ホテルへ2人で入ったのを誰が見かけたとか、そういう話が大好きで、いつも身を乗り出して詳しく聞いては両手を打って大笑いしていたし、夜酒の席になると猥談も好きで、時には自らの経験をネタにして、ここに書けない様な用語を使い、自分で大笑いする時もあった。

 私は大阪で何回も山田さんに晩飯を御馳走になった。いつもとびきりの笑顔で舞台事務所に誘いに来た。終演後衣裳化粧そのまま舞台から引っ込んで来たその足で舞台事務所に寄るので、私はいつも登場人物の橘之助に誘われている様な錯覚を覚えた。

「中根さあん、今日は少し滋養を取りに行きませんか。」

私は山田さんのこういう古風な物言い、滋養を取るとか、”含水炭素”を食べると太っていけないんですの、とかが大好きだ。そういう時の山田さんは、人を魅了せずに措かない笑顔が付いている。

 その日も滋養を付けましょうの日だった。私は何の警戒心抱かずに、焼肉でも食べるのかしらと思って付いて行った。

 道頓堀を少し歩いて裏手にある小体な店に入ろうとした時、気が付いた。しまった、お好み焼きだ!

私は大阪の食べ物ではたこ焼きと並んでお好み焼きが嫌いである。 それでもたこ焼きの方は殆どアレルギーで呑み込んだら吐いてしまうので、死んだ気で断わることも出来るのだが、お好み焼きは微妙である。 大嫌いだが死んだ気で食べられないことも無い。今更ここまで来て、上機嫌の山田さんに、私お好み焼きがきらいでして、なんぞ言えない。などと思っているうちに、もう店の中、山田さん自身に椅子を勧められてアララと云う間にモーロー然と坐ってしまった。

 お好み焼きの、半焼けの粉のニチャニチャした舌触りを思うと、今から走って逃げたくなるが、ここは天下の山田さんに夕食を誘われて応じたのは私。私はプロデューサーだ。なんのお好み焼きの1枚くらい、食って死ぬ訳でもないだろうと、腹をくくった。生憎今日のメンツは山田さんと私と付人の京ちゃんの3人連れ、人にかくれてごまかす訳にも行かない。

 という間に何やら怪奇な材料が山運ばれて来る。中でも目立つのは件のメリケン粉の溶いたヤツで、それを見ると腰が浮く。

 山田さんは構わずそれをかきまわし、キャベツのきざんだのをドッとほうり込み、尚も散々にかきまわす。

「今日は私がやりますからね、こう見えて焼くの上手いんですよ。」

 益々御機嫌。 天下の山田五十鈴が手ずから作るお好み焼き、こうなったらもうしょうがない、死んだ気で一枚食ってやろうじゃないか。

 お好み焼きは私の思いもかけぬ工程で焼けて行き、最後に山田さんは何とマヨネーズを網の目になる程にかけ廻した。マヨネーズも食えない程ではないが好きではない。私は殆ど泣きそうになって山田さんの手許を固唾を呑んで見つめていた。

「出来ましたよお、美味そうでしょ。」

掛声と共に私の巨大な皿の上にそのブツがドサと抛り投げられた。

 私は言葉を失った。お好み焼きは私の皿より大きくて完全に皿を隠し、端の方は周囲に垂れ下がっているではないか。

 えっこれを食うのか、仕方がない、私は昔給食で嫌いなものが出た時の要領で、出来る限りのスピードで口に入れるとは呑み込むという作業をやることにした。半分位まで行くともう顔は冷汗ビッショリ、本当に死ぬか吐くかという思いで全部を異常な速さで食い終った時は、殆ど痴呆状態に陥った。

 忘れていた。山田さんは、と見ると、一生懸命2枚を焼いていてもう完成間近だ。何やら笑みを浮かべながら鼻歌まじりにやっている。余程に機嫌がいい。ああ全部食えて良かったとお礼を云おうとした所で2枚目が出来上がった。御自分で食べるのか京ちゃんに行くのかと見る間に、山田さんはヘラでお好み焼きを持ち上げ、アッと云う間も無く、私のお皿にドサと3枚目を抛った。私は事態が呑み込めず、数十秒沈黙したままだった。

 山田さんは満面にとびきりの笑顔で云った。

「中根さん、よっぽど好きなのね、凄いスピードで召し上って。もう1枚是非どーぞ。」

 私は失神寸前だったが、結果としてもう1枚を食ったことだけ記しておく。

 怖い顔もとびきりの笑顔も、どちらも山田さんの極端な2つの顔だが、どっちにしても人に有無を云わさぬ顔であった。

 最後は「八月の鯨」をやりましょうと約束していたのが果せなかった。

#演劇 #プロデューサー  #山田五十鈴

嵐徳三郎 手間のかかった「徳さん」

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(16)ー(悲劇喜劇2020年5月号)

 大阪の歌舞伎役者嵐徳三郎と知り合ったのは、徳三郎が蜷川幸雄宛に出した一種の毛筆の手紙からだった。 『近松心中物語』 帝劇公演中のことで、蜷川は私にその手紙を読ませた。文中、昨夜の帝劇の観劇が彼にとって特別の体験になったこと、終演後、興奮のあまり堀端をずっと歩き続けたこと、自分もどうしてもこういう芝居に出たいので何か機会があったら必ず口をかけてほしいとのこと、他 『近松心中物語』 が歌舞伎の現代劇化という面から持った意義について、自分が門閥出身でなく大学出のいわゆる”学士俳優”であって、その目から見た 『近松心中物語』 の意味について、めんめんとつづられていた。

 私と蜷川は読みながら、「何だこの人、判ってるじゃないの」「歌舞伎役者の中にこういう反応が出たのはうれしいね」「この人、次の芝居で出しちゃおう」「次はマクベスだね、彼は何にしようか」「女形だそうだし、魔女しかないな」 「そうだ魔女だ、魔女がいい。歌舞伎の女形の魔女だ、決まりだ」「俺、明日松竹に電話する」

 とこんな具合に徳三郎との長い付き合いが始まった。 徳三郎の筆頭魔女は『NINAGAWA-マクベス』の幕開けを、その圧倒的な存在感と声の素晴らしさで飾り、東京公演のみならず、エジンバラにもロンドンにもニューヨークにも行き、その後ずっと各地の外国公『 NINAGAWA-マクベス』の国際的評価を確立するのに大きく寄与した。

 “徳さん”はしかし自死した。病院の6階のテラスから飛び降りて。脳震盪で倒れたあと、その後遺症に悩んでということになっているが、徳さんほどの人が、徳さんほどの役者が、そんなことくらいで自ら死を選ぶだろうか。

 死の二週間ほど前のこと、さんは大阪の病院から私の自宅に電話してきた。私自身も、脳内出血で倒れ左半身麻痺の身となってまだ間もないころだった。しかし聞くところによれば徳さんの状態は私よりずっと良く、当初、裏返りするのもままならなかった私に較べ、見舞いに行った連中を出口まで歩いて見送りに来るほどだったというので、 私は安心していた。

 ところがその電話で徳さんは“死にたい”と云う。「もう駄目です。“他人の振り見て吾が振り直せ”というのがよく分かりましたわ。 中根さんの気持ちよう分かりました。僕もう死にたい思うてます。実際のう思うで、タオル首に巻いて両方の引っぱって死のうとしたのんが、ゲーとなって死ねませんねん」泣いている。私は笑ってしまった。 「徳さん、シャレにならないよ。冗談はおよしなさい。徳さん、僕よりずっとましだそうじゃないか。これから年取って歌舞伎でも年寄りの大役が沢山待ってるんだし、『王女メディア』だってまだまだやって貰わなきゃならないし、ギリシャで『王女メディア』やる話も交渉煮詰まってきてるんだから、徳さん死んでるヒマは無いよ。俺だって左側半分壊れちまったけど、足場の無いギリシャくんだりまで行こうてんだから、徳さん死ぬなんて思っちゃだめよ。お互いがんばろう」

『王女メディア』といえば、私はこの時本気で徳さんのために、徳さんのためだけにギリシャ公演を実現しようとしていた。『王女メディア』は、平幹二朗が病気を理由に『マクベス』『王女メディア』2本立ての、ともに主演のロンドン・ナショナルシアター公演を降り、衣装・小道具を積んだコンデナまでロンドンへ船で送っている途中で、プロデューサーとしての私はこの業界で生き残れるかどうか浮沈の境目の時、徳さんがメディアの代役を引き受けてくれて窮地を救ってもらった大きな惜りがある。

 この「王女メディア」の代役をやってもらうについてもいい加減大変だった。高松の実家に徳さんがいるのを突きとめ、電話をした。最初は「無理」「出来ない」の一点張り。「私みたいな役者がそんな大きい役出来ませんわ」「そんなん無理ですわ」「平さんみたいな人の役やるなんて、私なんかがとても無理ですわ」「ギリシャ悲劇の主役なんて、 そんなん恐ろしうてとても出来ませんわ、どうぞ話が他の人に……」 いくら頼んでも、おだてても、懇願しても、30分も電話でねばっても、ぬらりくらり、うぢうぢ、ぐずぐず、どうしても何を云っても埒があかない。私も必死、人生の分かれ目の時、粘りに粘ったが、遂に切れてしまって大きな声を出した。「分った徳さん、やりたくないのねっ。」そしたら何と徳さんは云った「そらまあ、ほんまのこと言うたら、シメタ思いますけどな」

 私は受話器を持ったまま椅子から落ちた。早く言えよそれを。いつものことだけど、場合が場合だ。ぐじゅぐじゅにもほどがある。

 『王女メディア』 ロンドン公演初日の翌朝、私たちは大勢でホテルの朝食堂に揃い、新聞の批評を待っていた。徳さんは初日公演の数時間前、蜷川が徳さんに吐いた一言を根に持っていた。

「中根さん、僕、 “死ね”言われましたわ」徳さんが閉幕を前に恐怖のあまり「僕、こんなん、もう死んでまうわ」と言ったら、蜷川に一言「そんなら、死ね!」と言われたと。

「そりゃねえ徳さん、 蜷川さんだって怖いからだよ。それを主演の徳さんが怖さをあおるようなこと言うからだよ。 それに“死ね"というのは蜷川さんの“田舎訛り”。“死ね"とか”てめえ、このやろ、馬鹿やろ”とかあの人が言うのは出身の川口弁だよ」「そうですかあ。それでも今から批評でボロクソ云われたら、僕なんか今日中に日本に帰らななりませんでしょ」 「まだそんなこと言って、大丈夫だってば」

 朝刊が各紙いっせいに到着して批評が出揃った。 「何だ徳さんぺタ褒めだよ。大絶賛。これ以上褒めようのないくらい。どの新聞もみんな。日本に帰ることありませんからね」

「ほんまですかあ?僕なんかがそんな。うそでしょう」

「徳さん、もうぐずぐず言いっこなし、いい加減自分を信じましょうよ。徳さんだけでなく僕らの芝居全体が褒められてるんだ」

 こうして徳さんはその年の「ローレンス・オリヴィエ賞」にノミネートされ、僕らと徳さんの『王女メディア』の世界への長い旅が始まった。

 実際、徳さんのメディアは凄かった。鬼気せまると云っていいくらいのものだった。徳さんが手を抜いたり、楽に流したりした芝居を見たことがない。いつどこでもどんな状況でもさんは芝居に手を抜かなかった。細部の指の先まで神経を行きわたらせ完璧に演じた。それはロンドンのナショナル・シアターでも、ヨルダンの僻地のローマ遺跡ジェラーシュの古代劇場で現地の土民相手に公演することになった時も変わらなかった。 ジェラーシュの客のいない客席相手の通し台稽古の時、満々たる月の下での徳さんの芝居は神技に近づき、効果の巨匠、あの人を褒めない本間明さんが、終演後、持ち場から客席の階段を降りてきて、私に、「これは本当の最高傑作じゃないですか」と感に堪えたように言ったのが忘れられない。

 世界での旅の先々で徳さんとは様々なメシを食い、様々な話をしたが、時に話が“学生俳優”(そういう言い方が当時あった)たる自分を決して受け入れない歌舞伎界の因習と、その代表たる歌右衛門が自分の歌舞伎座出演を決して認めないことなどに及び、自分の『王女メディア』 出演が、 門閥でない歌舞伎俳優たちの“希望”になっていることにまで及んだ。

 ”指先“に話が及んだのはそうしたある晩だった。女形たる自分は並の努力では決して認められないと指先にまで神経を使った。座った時に足を小さく見せるため、足袋の中で足指を折りたたみ、折り重ねて、足を小さく見せる工夫をして訓練したこと、手の指も同様、芝居の場ごとに工夫のあることなど。私たちは、へええ、そこまでと感心して聞くばかりであった。

 徳さんはしたたかな人だと思っていた。「シメタ思いますわ」と云われて以来、本当は根はしたたかなのだと思っていた。まさか本当に死ぬ気だったとは思わなかった。死の2週前の電話の時も、徳さん独特のいつものグズグズだと思って真剣に相手にしなかったのが100万回も悔やまれる。自分の”指先”まで支配できない症状が、完全を追及して止むことがなかった役者、嵐徳三郎は、きっと許せなかったのだろう。

 徳さんは宝石が好きだった。海外公演の都度、その地の宝石を記念にと買っていた。何回か付き合ったその買い物の時、長い時間をかけてためつすがめつしていたその額の玉の汗が、店のカウンターのガラスにボトリポトリと落ちては弾けるのを、美しいと思って見ていたのを思い出す。エジプトのカイロ、ハン・ハリーリ市場のことだった。

#演劇 #プロデューサー  #嵐徳三郎

高橋惠子 関根恵子

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(15)ー(悲劇喜劇2020年3月号)

 昔、関根恵子という名でデビューしたのが現在の高橋惠子さんである。結婚して高橋になった。しかしその名が変わったのには、単に結婚というだけ以上の意味があった。更生したのである。文字通り人生に於いて。

 初めて本人を見かけたのは大映東京撮影所だった。撮影所の事務所で私は一の宮あつ子さんに台本を届けるべく、ソファーに座って待っていた。と、そこへ一陣の風と共に扉が開いて1人の少女が入ってきた。関根恵子であった。 当時15歳か16歳であったろうか、私はその美しさに呆然自失して、口を開けて見とれたままであった。少女は、何このおじさんという一瞥をくれたきり撮影所のスタッフと2言3言話して、又風のように去って行った。強烈なインパクトだった。 すでに演劇界に身を置いてその時10年。美女といわれる人はもう散々見ていた。しかしその時の関根恵子のような新さと美しさとセクシーさをすべて合わせ持ったような人を他に知らなかった。

 それから2、三年、私は蜷川幸雄と出会い、大劇場でシェイクスピアを製作するプロデューサーになっていた。

 その時もシェイクスピアの「リア王」を、市川染五郎(現・松本白鸚)の主演で日生劇場で上演することになり、私は"コーディーリアに一も二もなく関根恵子を推した。 蜷川も又興奮して大賛成し、私は出演交渉を進めた。その頃の関根恵子は、若くしてすでに大売れの売れっ子であり、ある映画の全裸の水浴シーンの清潔な美しさが大評判を呼んで、メディアの注目を浴びる新進スターであって、出演交渉はなかなか思う様に進まなかった。マネージャーによると本人は舞台の仕事が初めてということもあって迷っているという。

 それじゃ直接会って口説かしてくれと私はマネージャーに頼んだ。 蜷川も一緒だ。蜷川はこの頃未だ有名演出家では無く、業界の一部で、小劇場から商業演劇に東宝が引き抜いた特異な演出家として、注目を集めていたという状態で、無論関根恵子にはそれらの裏事情は全然関係無い。只30代の男二人口を揃えて口説きまくれば、10代の小娘一人説得できないはずも無いと、私達はタカをくくっていた。なにより本人が私達に会いたいと言っているというのだ。いい知らせに違いない。

 私は会談の場所に、かつての赤坂のTBS会館の地下のしやぶしゃぶ屋”ざくろ”を選んだ。ざくろ”は新しいビルに今もあるが、当時流行のしゃぶしゃぶ店で、芸能界は勿論、商社などまで利用する大人のパワースポットだ。こういう高級店の雰囲気で、小娘を圧倒しようという作戦。 その為に敢て予算にうるさく、接待の場所にケチ臭い東宝演劇部の意に反してこういう場所を使うのだ。

 私と蜷川は定刻より三十分も前にざくろに着いた。かえって蜷川の方がビビッて、「おいいいのかよこんな高い店使って」メニューを見て私もビビっていた。 懐の金が足りるかどうか心配になったのだ。

 そうこうするうちに定刻通り関根恵子は颯爽と明るく元気に現われた。あたりの客たちがざわざわとざわつくのが判った。

 互いを紹介する間もなく、4人前の肉の大皿が箱ばれた。しゃぶしゃぶの鍋はすでにテーブルの真中で音をたててたぎっている。

「わーすごーい。食べていいですか」恵子ちゃんはいきなり肉をすくい取り鍋にほうり込んだ。 少女の食欲の勢いというものだ。私と蜷川は気を呑まれて肉をつまむのも忘れ、声をかけるのも忘れているうち、恵子ちゃんはどんどん食べ始めた。次から次へ鍋に肉をほうり込み次から次へすくい取って口へ運ぶ。それは腹の空いた練習後の運動選手のような食欲で、見ていて何か神聖なもののようでもあった。

 私はしょうがないこの勢いは止められない、仕事の話は食った後にしようと内心思った。それでも、私も蜷川も自分たちの肉に手を出すのを忘れていたというか、あまりのテンボの速さと食欲の見事さ、食いっぷりの良さに見とれて手が出なかったのだ。

 結局私たち二人がろくに声もかけないうちに、恵子ちゃんは4人前の肉をペロリと食べ終わった。自分の分と蜷川と私の分とマネージャーの分をである。

 食べ終わると同時に恵子ちゃんはいきなり立ち上がった。ペコリと頭を小さく下げて宣言するように言った。 

「私、このお仕事、やっぱり止めます!

 それは食べ終わって間髪を入れずであった。

 そしてくるりと後ろを向くと、声をかける間もなく早足でしゃぶしゃぶ店を出ていってしまった。

 男2人がかりで説得も何もあるものか。我々は平謝りにあやまるマネージャーを前に、呆然と座りつくし、後には空の大皿と、そこに確かに数分前まで猛然と肉を食べていた美少女がいた空気感だけが残った。

 これが高橋惠子が関根恵子だった時のしゃぶしゃぶ食い逃げ事件の顛末である。

 オジサン二人は世にも間抜けな顔をして、とり残されたのだが、翌朝は九時ごろ蜷川に電話した。

「参ったね昨日は、あとどうしようか」

断られることなど全く予期していなかったのだ。

「頭来たからよ、俺さっきうんと肉焼いてから食ってやった」

「朝からよく肉なんぞ食うね、じゃあ俺後の考えとくから一日ちょうだい」

案外浅かったようだ。だがしかし蜷川はこの食い逃げを長い間根に持った。もともとさっぱりしない性格だ。

 そして数年後関根恵子は大きな事件を起こした。パルコ劇場の芝居を脱走して、男と海外へ旅に出てしまったのだ。

 日本中のメディアが大騒ぎした事件だった。しかし旅先で死ぬつもりだったこの東南アジア行から、幸いにも恵子ちゃんは帰って来た。

 私はテレビで見たこの帰国時の空港での関根恵子の態邃を忘れない。水泳選手のように短髪に切り、アゴを上げ、ムネを反らし、山のようにたかった報道陣を見下すように一歩一歩ゆっくり誇りに満ちてタラップを降りてくる姿は、もう牛肉を4人前一気に平らげる、あの関根恵子の片鱗も無く、1人の成長した独立した女がそこにいた。 何かが根本的に変わったのだ。私はその女をなぜか支持する気になった。 私は開根恵子の味方になろうと思った。

 それから又年が経った。あの娘は結婚して高橋惠子になり、立派に成熟した女になっているようだったが、仕事は憚るようにあまりせず、その姿を舞台や映像で往年の如く見ることは無かった。

 でも、北海道のなんとか郡なんとか町熊牛原野番外地とい本籍地に生れた、あの天然自然の美少女のその後に関心のある人は多かった。

 私は機会をうかがっていたが、「近松心中物語」の女主人”梅川”の役の交替の時が来て、私は時ぞ来たれりと蜷川に、高橋惠子の起用を提案した。蜷川は最初こばんだ。

「えー高橋惠子?年とり過ぎてるよー。もっと若々しくしなきゃ!」

 直接会っている訳はない。テレビや映画で見る機会もない。 何を元に老け過ぎてるというのだ。

「それにより、あいつ食い逃げしやがったろ」

 出た。 それかよ。自分がしゃぶしゃぶ代払った訳でなし、怨念が根深すぎるんじゃないの。私はねばり食い下がった。結局はしぶしぶ了承し、高橋惠子さんの『近松心中物語』出演は実現した。素晴らしい舞台だった。彼女のこれまでの易からぬ人生経験が遊女“梅川”のキャラクターに投影されて、舞台は蜷川も満足する傑作となった。

 更にまた何年かが過ぎ『近松心中物語』は又公演を重ね、色々な事情から平幹二朗・富司純子の配役で大阪で公演し、次に東京明治座で公演すると決まっていた初日の十日程前、富司純子が急に出演しない事になった。 切符は売っている。 誰か代役といっても客の納得する人でなければならない。 困惑の末、私は高橋惠子に電話し、強いての出演を懇願した。勿論スケジュールは埋まっていて、映画の撮影の最中だとの事だった。

 翌日彼女は電話をくれた。映画をストップして出演してくれると云う。

「大丈夫出られるわ。中楓さんには借りがあるもの」

 何の借りだか云わなくとも分かった。

 こうして食い逃げの貸借はチャラになった。

#演劇 #プロデューサー #高橋惠子 #関根恵子 #近松心中物語

杉村春子さん 芯の怖さ

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(14)ー(悲劇喜劇2020年1月号)

 杉村春子さんに、東宝の芝居に出演してもらおうと思ったのは、山田五十鈴さんの「たぬき」が芸術座で空前の大当りをとり、私としても先行きこれ以上のヒットを望むには、と次の一手を考えてのことだった。

 それには杉村さんに御出馬頂いて、杉村春子ー山田五十鈴という顔合わせの芝居を芸術座で打つというのが、演劇史上に残るような公演になり、また観客の要望に応えることにもなるだろうと思ってのことだった。

 しかし杉村さんにその気になってもらうには3年ほどもかかった。勿論文学座内部の諸事情とのしがらみもあるし、 はじめての商業演劇公演への出演という気の重さもあるだろうし、なかなか気軽に出てみようという気にはなれなかったのだろう。

 それでも私はしつこく依頼し、しまいには文学座の地方公演で杉村春子一座の時、その公演先の京都とか果ては佐賀とか、田舎にまで足を延ばして、手みやげを携え楽屋を訪い、頭を下げまくった。

 手みやげには、文学座からの情報を元に、お茶漬けの友が鉄板と思われた。 杉村さんは食事の最後は必ずお茶漬けでめるということを聞いたのだ。よって京都では三条の駅の傍らにある名物“お茶漬けうなぎ”を持参。杉村さんは歓声を上げて喜んでくれた。そして私の口説き文句を少しは聞いてくれた。佐賀では、遠いところまでということもあり、楽屋を訪ねるなり笑顔で接してくれ、夜の部のない日であったので夕食をご馳走になり、2人きりで話をゆっくり聞いてくれた。その結果、「この年になって私はきたならしい役はやりたくないんですよ」などいくつか条件めいたことまで口にし、新作でやること、文学座の役者を何人か入れること、など具体的に進み話は佐賀でまとまった。

 旅が終わって東京に帰って来たのを見計らって、時を置かずに山田五十鈴ー杉村春子の2人の顔合わせ夕食会を有楽町の料亭でやった。

 お2人の他に東宝・文学座のお偉方数人が出席する儀式めいた会だったが、2人からはそれぞれ事前に、当日相手が何を着て来るかの問い合わせがあった。着物でしょうとそれぞれに答え、当日は2人共着物、それも選りすぐった物を着て来たのは見物だった。会うなり互いに相手のお召し物をひとしきり褒め合うところから始まった。これは花柳章太郎からもらった帯、 これはどこそこのおばあさんがもう1人残って、その人しか織る人が居ない布、などなど長く続き、食事が始まっても、山田さんは戦時中長谷川一夫と田舎まわりの旅公演の苦労話、杉村さんは文学座分裂の時どれほどの人に裏切られ傷ついたかという深い話までして、2人は互いに認め合い信頼し合って、一緒に芝居を1本作りましょうよ、という雰囲気で終わり、会は成功だった。

 新作でということで作家は山田さんと縁が深いこともあって榎本滋民に決まった。演出は榎本滋民の場合自分でやる。主演俳優が2人先に決まって作家演出家がそのあとというのが“商業演劇”らしい。プロデューサーが先でまだよかった。プロデューサーが最後という場合だってよくあるのだ。

 いずれにせよ事は始まり、進んだ。山田・杉村公演ということで、世間の大きな話題になり、作家が誰であれ前売りの切符は売れに売れた。「たぬき」に続く大ヒットで私は会社に対し面目をほどこした。これがこう来れば、一方私がその東宝に引っ張り込んだ蜷川幸雄と相当無理なことをやっても話が通る。

 私は毎日の前売りの日の数字を見ながら意気揚々と仕事を進め榎本滋民を待った

 題名は「やどかり」と決まった。このタイトルは何で「やどかり」なのか芝居が終わっても分からなかった。本は遅かった。稽古の始まる直前だ。初日の前20日を切っていた。

 一読、愕然とした。山田杉村公演というのに、二人がかみ合う場面がないのだ。2人の人物の物語のパターンが並行進み、2人はほとんど会話すらしない。

 こんなことで、こんな本で、世間に申し訳が立つか。3年前から私の口車に乗って頭を悩ませ、しまいには期待もしただろう芝居がこんな本になって、杉村春子に何と言い訳すればいいんだ。しかしもう全部書き直せという時間はない。稽古は始まる。

 稽古初日、本読みをする。終わって杉村春子の顔をうかがう。何ともいえない梅干をしゃぶったような顔だ。 先ずは反応を待つしかない。

 私は始まった立稽古を胃が灼ける想いで見ていた。

 その頃というか1950年代からずっと、東宝の稽古場は旧本社別館という5階建ての古いビルが有楽座の裏手にあって、そこを使っていた。 「やどかり」の稽古はその4階、板張りの古色蒼然とした稽古場で行われた。榎本滋民はその一隅ピアノの横の席に厳然と鎮座し、そのすぐ後、壁との間には古いあまりにバネがこわれ底の抜けたソファーが建物と同じくらい古く、忘れられたように据えられていた。

 稽古の最中、2人共出番のない時間帯に、杉村さんが私に目配せして、古いソファーに呼び出した。私は誘われるまま、榎本滋民の後50センチほどしかないソファーに腹をひっこめるようにして座った。ソファーは底が抜けているから、私は尻がはまり込み膝が胸につきそうになるような姿勢になった。

 杉村さんが左横に座る。いつもそうであるようにあくまで背筋を真っ直ぐにソファーの先端に座っているから、杉村さんは私のようにはならない。

 いつの間にか山田さんが近寄って来ていて私の右側に座る。やはりキチンと背筋を伸ばしソファーの先端に座るから、私は二人にはさまれ、小さなソファーの真中に埋没した格好だ。

 榎本滋民は私たち3人の前50センチの演出席にいて、 手を伸ばせば背中に触る位置だ。

 と、杉村さんが口を切った。

「なんでございますか山田さん、東宝なんかでは役者なんぞは御本をお書きになる先生には口出しなんか出来ないものでございますか」

「いいええ私なんかよく先生にお願いするんでございますよ。文学座なんかではいかがですかあ」

「私たちはしょっちゅう本に駄目を出すんですよ。宮本研の本なんかいつもズタズタにしてやるんでございますよ」

「まあそうですか。中根さーん。今度の御本は杉村先生と私とカラム所が少し足りないと思うんですけれど、そこのところを中根さんから先生にお願いしてみて下さいませんかあ」

「そうでございますね、中さんからお願いしていただくのがよろしゅうございますね」

「ではよろしく」

「よろしく」

2人はすべてが聞こえているはずの滋民亭(スタッフ達は陰でこう呼んでいた)に一番もくれず別々の方向に去って行った。

 私は冷や汗をビッショリかいて呆然と2人を見送り、それから滋民亭との話し合いにのぞんだ。

 ひとしきり口上を述べたら榎本滋民が云った。

「それは君の意見か、役者の希望か」

「私の意見でも、お2人の強い希望でもあります」全部聞こえていただろう。滋民亭はたまったものではなかったはずだ。

「やどかり」の本は山田・杉村が二人でカラム

一場を書き足す形で完結することになった。

 初日が開いてしばらく経ち、芸術座はこぼれんばかりの客で溢れかえり、杉村さんはわりあい機嫌よく毎日の大入り満員を楽しんでいるようだった。

 ある日私は所用があって杉村さんの楽屋を終演後すぐに訪ねた。扉を開けて挨拶する。

メイクを落とした杉村さんが、

「お疲れ様でした」

「お疲れ様」声と同時にこちらに振り向く、と同時に肩に羽織った浴衣をハラリと落として両肌脱ぎになった。

「アラ中根さん、アラアラマアマア」浴衣を肩に着ない。

 私は恐慌をきたしてあわてて後ろを振り向き楽屋を飛び出した。

「失礼しました」

 私があやまることはないのだが、びっくりして廊下を戻り舞台事務所に居た文学座のマネージャー根津に訴えた。 根津はケラケラと笑って言った。

「やるんですよ杉村は、気に入ったんだと。 中根さんあなた気に入られてるんですよ」

 気に入られたのはいいとして、本のことといい、あんまり

若いプロデューサーをおどかすのはやめてもらいたい。

 その後年が経って、文学座の何人かの女優たちにこれをやる人がままあるのを知り、私はそれを文学座の文化と理解することにした。今はこの伝統文化が受け継がれているか知らない。

#演劇 #プロデューサー #杉村春子 #文学座

#山田五十鈴 #芸術座

塩島昭彦 天然の変人「チョーさん」

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(13)ー(悲劇喜劇2019年11月号)

 塩島昭彦といっても古い文学座ファンを除いて知る人も少なくなってしまったが、奇人変人の多い文学座の役者の中でもチョーさんは変人として名高い人だった。本当に惜しいことだが、アパートの階段を転げ落ち亡くなってもう何年にもなる。彼は変人と云っても、偏屈な変わり者系ではなく、陽気で天真爛漫、根が優しいので誰にでも好かれるタイプの人で、インテリで芝居に一家言あり、酔って演劇論を始めると皆が耳を傾けた。ただ酒が好きで相当呑んだが、酒の入った時だけが要注意になる男だった。

 芝居は上手く、舞台で独特の存在感があり、貴重な脇役で得難い人なので私はこの役者を重用した。チョーさんと云えばあの人の好さそうな長い顔と少し怪しい笑み、手足をもて余したような長身の身振り手振りを思い出す。

 その日はまた『近松心中物語』の公演中の小パーティーで、青山のクラブに主だった俳優10人ばかりと蜷川、私、それに珍しくも秋元松代先生という顔ぶれだった。ただし蜷川と私は次の公演『ノートルダム・ド・パリ』の打ち合わせで高橋陸郎と会う約束があり、途中で抜け出さねばならなかった。秋元先生を想うとこの抜け出すというのがなかなか難しく、私と蜷川はタイミングを計っていた。ただその間にも会は盛り上がり酒は強み、秋元先生はどんどん酔っていく。抜け出す気配をさとられてはいけない。特に太地喜和子には気を付けなければ。危険だ。

 皆がそれぞれ手持ちの得意の歌を歌い始め、金田龍之介さんが軽いノリで巨軀をゆすりながらジャズ・ナンバーのいくつかをこなして会の雰囲気は最高になった。

 その時喜和子がよせば良いのに甘ったれた声で云った。

「ねえねえ秋元センセ、センセも何か歌って下さいな」

 秋元先生はすっくと立ち上がると厳しい顔と声で全員に宣言する様に云った。

「私の”かさぶた武部考”に出てくる”御詠歌”を歌います」

 みんなシーンと静まり返った。ジャズ・ナンバーのあと御詠歌?何だそりゃ。

 でも、とに角御詠歌は始まった。秋元先生は野太い声だった。じっと目をつむったまま、地を這う様な歌はつづく。 歌というよりそれは呪文のようであった。みんな我慢をして聞いているフリをする。更に歌はつづく。先生は目をつかったままである。

 今だ。この座をずらかるのは。今しかない。私は蜷川をうながし2人足音をひそめて一座を抜け出しタクシーを拾った。後は、後のことなぞ知るもんか。みんな適当に先生をなだめてくれるだろう。

 後のことはだから私は現場を見ていない。十指に余る目撃者に翌日聞いた話である。

 歌い終わって蜷川と私、2人がずらかったのを発見した秋元先生の荒れ方は、私の予想を遥かに超えるものだった。

「あいつらはどこへ行った。帰ったのか。無礼者」

「次の仕事だ?益々無礼だ。呼びかえせ。 電話を調べろ」

「帝国ホテルで打ち合わせ?帝国ホテルに電話しろ!」

 山岡久乃がなだめても、太地喜和子がしだれかかっても、罵声は止むことを知らず、ついには「中根の家にすぐ行くから車を呼べ」。(実際タクシーで私の家近辺まで来て、 マッチの火で表札を一つ一つ照らしながら探したとの事)という騒ぎになったその時、誰もが思いもかけぬ方法で、しかも一瞬にして秋元先生をめてしまったのがチョーさん、塩島昭彦だった。

 ソファーにあぐらをかきを怒鳴りまくる秋元先生の真後ろから近寄ったチョーさんは、「先生そんなに怒っちゃ駄目よ」と云うなり、いきなり先生の顔を後ろから両手で挟みつけ、ガバと先生の口にキスをした。 しかもディープなキスで舌も入れ(本人談)、暴れる先生が大人しくなるまでゆっくり愛情を込めてキスをしたとのこと。先生は腑抜けた様になってしまって呆気にとられた全員がただただ見守る中、 優しい山岡久乃に介抱されながらトイレに行き、長時間ガラガラとうがいをしていたそうな。 

 翌日さすがに劇場に来なかった秋元先生ので楽屋内は大賑わいだったが、当のチョーさんは事も無げに平気な顔で、私の質問の嵐に答え、「たまにはあのくらいのサービスしてあげたっていいでしょアハハ」とあくまで天然に明るい。 私は昨夜のいわば御礼と一種の申し訳なさとでチョーさんに詫びた。「チョーさん、御免ねキスまでさせちゃって。七十過ぎのおばあさんとキスするのってどんな?」「どんなって、普通よ。20も70も変わりないよ。そういうの僕ゆうべが初めてって訳じゃないし」「ひええチョーさん経験積んでんだ」「あるよ僕何人も。お年寄りとナニしたこと」

 1才でも年上は駄目という性分の私と較べて、チョーさんの人生は奥が深く私の様な若輩者とは訳が違う。私は塩島昭彦を尊敬した。

 一寸尊敬したこともあるチョーさんだが、破滅的な打撃を被ったこともある。海外でのことだ。イタリア北部の町アスティで私達は『王女メディア』の公演をしていた。町は静かで小さく、ワインとイタリアのシャンパンーースプマンテが名物の穏やかさ以外に何もない様な町だった。劇場は町中の大学の内の中庭に特設した野外劇場。町の中心の広場に面した小さな二階建ての我々のホテルから歩いて五分という、まるでホテルが劇場のような気安さだった。開演は毎夕8時半から9時頃、頃というのはそもそも夏のイタリアは日没が遅いうえに、雲の具合の関係で判然と暗くなってくるのが毎日定まらないからで、こんなのもゆるーいイタリアの雰囲気と相まって、野外公演の楽しさだ。客も勿論騒がないし、主催者も「あと10分くらいしたら始めていいかね中根サン」とのどかなものだ。

 チョーさんは3日目の晩、ホテルの相部屋の大門伍朗と、終演後帰って来たら1杯やる積りで、昼のうちにワイン数本、サラミソーセージ、チーズなどなどを仕入れておいた。私がそれを知ったのは終演後劇場指定のレストランで同僚の堀井康明と食事をしてくつろぎ、「芝居は当たっているし、まあいい公演だねぇ、ここはメシも旨い町だし」といい機嫌でホテルへ戻ってきて、入口で何か云いようのない異常を感じた後だった。

 ホテルの支配人が私に向って両手を構え、自動小銃で撃つ真似をする。入口のカウンター付近は何とも云えず湿気に満ち、足元のカーペットはビチャビチャと靴にまとわりつく。支配人は強引に私の袖をつかんで、2階の入口の真上、塩島と大門の部屋へ階段を引きずるように連れて行く。「シニョーレ。この部屋の2人は間違いなく死刑だ。少なくとも終身だ。これを見てくれ」

 チョーさんは部屋には居ず、大門独り惨憺たる有様の部屋の斜めになったベッドに、お女郎さん座りに座って泣いている。

「伍朗ちゃんどうしたのをやったの」。私は声を荒らげた。「シクシク」。大門は声にならない。埒が明かない。

「アックア (水)!!」支配人が大声をあげる。洪水が起きたというのだ。この部屋が水源で、この部屋の2人が原因で!

 チョーさんが戻って来た。全く悪びれることなく、例の如く明るくニコニコしている。平気で居るチョーさんに事情を詰問すると、洪水とはこういうことだった。

 開演前に仕入れていた、ワインとおつまみの食物を、冷やしておこうということで、「ビデ」(ヨーロッパのホテルには殆ど必ず部屋に設置されている)に入れ、水を出しっぱなしにして冷やした(キタネー)食べ物の入ったビニール袋が「ビデ」の排水溝に詰まり、水は出しっぱなしだから、約5時間にわたり・ホテルの2階から1階の全域を浸し、ようやく10時半になって、二人が持ったまま外出した部屋の鍵をこわし、支配人が原因を突き止めて洪水を止めた。結果この2人の部屋は床から20センチ位の所まで、壁紙は喫水線の所で色変わりし、木製の大きな洋服は浮いて位置を変えトイレの入口を塞ぎ、更に部屋の外では廊下のカーペットをビショビショにしたあげく、1階の部屋々々の天井や壁に大きなシミをつけ、いくつかの部屋では電気の配線にダメージを与え、ようやく入口真上の2階バルコニーから尋常ならざる量の水が落ちてきて支配人が気づいたとのこと。

 支配人はイタリアのインテリによくいる、ヤセ型のスマートな男で悪い人には見えないが、これは結構な賠償金を覚悟せねばならないと私は内心震えた。

 チョーさんはといえば陽気にはしゃいで、帰って来る人ごとにつかまえては、「大変だったのよ」と他人事の様に一部始終を話している。いつの間にかチョーさんのまわりには人だかりが出来て、何か凱旋将軍の自慢話を聞く様なありさま。

 私は頭にきて、その気はなかったがチョーさんと大門に云った。

「これは自己責任だからね。賠償金のこと、考えといてよ」

「アラ大変。どうしよどうしよ」

といったって、この2人に払える程度の金額ではないだろうことは明白だ。このイタリア・ギリシャ公演は金に困って困って、女房の貯金にまで手をつけようという場合。 出発前に東宝とモメたあげくに成立した公演で、東宝が冷たい顔をするのは火を見るよりも明らか。さあどうしようどうしよう。

 ということで一応事が静まった未明に私は支配人にオズオズと切り出した。

「金をいくら払ったらいいか、金額の目処のつき次第、 イタリア側のインプレサリオ・マリオ・グァラルディにでも、私に直接でも連絡して下さい。 決して逃げないから」

「まあまあシニョーレ。今日はもう昨日になっている。こんな時間に金の話なんて嫌じゃないか。もう寝ようよ。話は朝になって新しい日が射してからだ」

 私はずいぶん心なぐさめられて、ベッドに入った。何時間寝るほどもなく、イタリアからギリシャへ移動の日の朝が来た。 私は支配人を探してつかまえ、また切り出した。

「賠償金の話だけど……」

今度は支配人の態度はキッパリと明快だった。

「日本人はこんな朝早くに金の話をするのかね。下品だ。 イタリア人はしない。そんなことよりお前さん達の芝居は大層評判がいい様だから、きっとまたこの間に来るだろう。そんな話はその時すればいいじゃないか、アテネでも成功することを祈っているよ、チャオ」

 私はこの空港行きのバスの中でみんなにした。

 チョーさんはゆうべ以来、ビデ夫人”と呼ばれる様になっていたが、この話で支配人は“イタリアの誇り”、チョーさんは“日本の恥”とも呼ばれる様になった。

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