中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

三木のり平 困った人

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(26)ー(悲劇喜劇2022年1月)

 本当に困った人だった。こっちが演出部だったりプロデューサーだったりした時は、全く付合いきれない人だった。

 しかし舞台の上や映画の画面では、可笑しいことこの上無い人だったことは万人が知っている。

 あんまり可笑しいので前歯を折ったという客が居た。旧宝塚劇場で菊田一夫の喜劇をやっている時、のり平と八波むと志(事故で早世した当時売り出しの喜劇役者)の2人の場面のこと、あまりの大受け満員の客席は全体が笑いで大波を打つ様に動いていて、笑い声の総量は二千数百人分、劇場のドアがポンポンとハチ切れるのではないかと云うばかりのすさまじいものであった。その時2階席最前列に座った一人の客が、皆と同じ様に、身体を大きく前後に揺すってボートを漕ぐ様になって笑っていたが、前に身体を折った拍子に目の前の真鍮の手摺に前歯をガーンとぶつけ2本折ってしまった。客は怒って、のり平がこんなに笑わしたから歯を折った。けしからん。これは東宝の責任だから歯の弁償をしろと劇場支配人の所に怒鳴りこみ、支配人は弁償を拒否して、これが又新聞の芸能ネタになる、という60年代初めのおおらかな時代の話である。

 のり平伝説の様なものは数多く巷聞に流布していて、セリフを覚えないなんというのはその最たるものだろう。だからいちいちここでは書かないが、私が目撃した一例は、例の知く覚えていないのり平に先輩演出部員が舞台の道具の陰からセリフを付けていたのだが、この伊藤厚先輩は少々ドモル癖もあってなかなかセリフが通じない。そしたらのり平はいら立って舞台の上で「聞こえねえよ下手っくそ」と言ってしまった。伊藤氏は気も短いのでカッときて台本をほうり出し、以後のセリフ付けをキッパリ止める。のり平は焦って伊藤氏を蹴とばしに来たり、「エエ?聞こえねえよ」と大きな声を出したり色々するが、伊藤さんは頑としてセリフを付けない。

 到頭芝居はハチャメチャのまま休憩時間になるが、暮切れセリで下りて行くのり平に、伊藤さんは頭の上から大声で「ざまあ見ろ!」と浴びせ、のり平は下りて行くセリの中で地団駄踏んで悔しがって、演出部一同セリの上をかこんで大笑いしたあげく胸のつかえが一気に下りた。

 時間を守らないのものり平伝説の一つだが、開演時間だけでなく、終演時間が毎日20分~25分も早く終るという奇怪な現象に私は首を傾げた。 新橋演舞場でのことである。のり平の付人、恋人の三浦にさぐりを入れると案の定のり平が芝居を端折ってこの所毎日二十分以上短く終り、終演後も走る様に楽屋を後にするという。そんなことがもう3日も統いている。只事でない。

 楽屋に行って厳しく訳を問うた。そしたらしれっとして云うではないか、”『刑事コロンボ』の連続再放送に間に合うように帰んなきゃいけないから。”” コロンボ”を見る為に芝居を大巾に端折られては金を払って見に来てる客はたまらない。こんなことをやってるから東京の喜劇は駄目になったのだ。私は怒り狂って仕返しをすることにした。

 毎日朝の開演時間ものり平は守らない。「化粧が間に合わない」「楽屋に客が来てる」となんだかんだ理屈をつけては開演時間をよくて5分ひどい時は10分も遅らせる。 なに毎朝寝坊して楽屋入りが遅く、楽屋に入ってもぐずぐずしているだけのことだ。

 のり平はこの芝居(もう題名も忘れた小野田勇のどうしようもない芝居だった)の幕開けから出ている。私はこの時演出部で舞台監督、開演のキューは私が出す。のり平の出は音楽と共に花道の揚幕からだった。

 私はこの日開演の放送と同時に容赦無く音楽のキューを出し緞帳を上げてやった。のり平はまだ楽屋に居た。開演の音楽が鳴ると同時にドタドタドタと大層な足音がしてのり平が揚幕に走って行くのが判った。空の舞台に音楽が鳴る間抜けな数十秒の後、更に花道を走って本舞台に入ったのり平がぜエゼエ息を吐きながら幕開きのセリフをやっと言った。 私は上手の袖からのり平にだけ聞える様に小さい声で言ってやった。 「ざまみろ。」

 その時の東宝演劇部の私の上司の名は伊藤厚。のり平に呼ばれて揉め事になったが、どっちが悪いという話に無論伊藤さんは耳を貸さず、舞台監督は事故の無い限り時間通り幕を開けるものと押し通してくれた。「ざまみろ」の件はのり平も敢えて口にしなかった。


 時は移って、といっても2、3年後、私はプロデューサーになっていて、宝塚劇場で三木のり平主演の公演で小島亢プロデューサーの製作補として2本立の前物を担当していた。この公演の顛末は”井上ひさし”の項で少し書いたが、要するに2本立の1本目を新人の井上ひさしに書いてもらって、三木のり平にも古今亭志ん朝財津一郎その他当時の喜劇人集合の新機軸の喜劇を成立させようという私の野心的企画が、井上ひさしが書けずに壊滅したのだったが、この公演では”のり平遅刻事件”という大事件が起きて、井上ひさしの遅単に拍車を掛け、公演の迷走に更に打撃を加えることになった。

 それは全く間の悪いことに記者招待日の昼の公演のことだった。 宣伝部と演劇記者会が話し合って決める演劇記者総見の日の12時の開演にまたものり平は遅刻したのだ。のり平が楽屋入りしたのは開演時間を5分か10分過ぎていたと記憶する。 記憶があいまいなのは私自身のり平楽屋入りの現場に居なくて、前夜のりが泊っていた帝国ホテルの部屋に走って行っていたからだ。ルームナンバーは予め付人の三浦から秘密情報として聞いていた。 “秘密”なのは女がからんでいたからだ。それが東宝現代劇のA女であることも私はつかんでいた。この場合そんなことはどうでもよかった。部屋の前に駆け付けた私はベルを鳴らした。押し続けた。 応答は無い。ドアをドンドン叩き続けた。応答は無かった。私は行き違いと思って、走って1分の劇場楽屋口に戻った。のり平は丁度着いていた。私がいたのと30秒の差だった。私がドアを叩いた時のり平がA女と中に居たのかどうか永遠の謎である。

 しかしその時幕は開いていた。厳格にして杓子定規の所のある小島亢チーフプロデューサーは、とっさの間に器用な荒木将久という役をのり平の代役に立てて、井上ひさし作と称する実は東宝の山崎博史の一夜漬け作品『満月祭ばやし」の幕を上げてしまったのだった。

 客席の演劇記者会は二重に怒った。全員がカンカンに怒った。芝居の2本目小野田勇作の『俺はお殿さま』には、のり平は涼しい顔で出演し目一杯爆笑演技をやっている。では何で1本目は荒木将久が演ったんだ。その上1本目の『満月祭ばやし』という井上ひさしなる新人の、この芝居は何だ。喜劇にも何にもなっていないお粗末そのもの。東宝は何でこんな新人を起用したんだ。 それにしてものり平は。休憩時間の記者達の詰間に、真っ直ぐな、融通の利かない性格の小島プロデューサーは正直に答えてしまった。「本人が一寸寝坊しまして。帝国ホテルに泊ってたんですが。」女の件は私は小島プロデューサーにも云っていない。結果的にこれは記者達の怒りの火に油を注いだ。

 翌日のスポーツ新聞芸能欄は大変だった「舐めるなのり平!!」新聞の寸法の横一杯に特大の大文字で見出しが出て、特集記事になってしまった。各紙竿を揃えてのり平の普段の遅刻癖やセリフを覚えないこと迄、今迄役者の愛嬌で済まされていたのがすべて裏目に出て、徹底的に攻撃され批判された。

 本質は案外気の小さいのり平は、身から出た錆とはいえさすがに死んだ振りで小さくなって楽屋に身を潜め、喜劇をやる精神状態ではなくなった。

 公演が終ってもしばらく世間に顔を出さなかった。 東宝との間も疎遠になって、誰ものり平で芝居をやろうと云う人は居なかった。

 1年程経ってのり平復活の機会を作ったのは又しても私だった。芸術座で京塚昌子の主演する長崎の女の豪商大浦お慶の愛人役に三木のり平を企画し、東宝の上層部も、もういいんじゃないかということで、小幡欣治に一本書いて貰うことになった。「あねしゃま」と題するこの芝居で、三木のり平は至極真面目に舞台を勤め、ドタバタ喜劇の演技を全く封じ、太った京塚昌子の愛人役をリアルに控え目に演じたが、やればやる程何ともいえぬ可笑しみと人間味が滲み出ていい芝居になった。

 演劇記者や批評家たちも改めて三木のり平という役者の存在意義を知った様だった。


 年を経て80年代も初めの頃、私は74年に蜷川幸雄を日生劇場に起用して以来、ずっとそちらにかまけて三木のり平とは仕事をしなくなっていた。10年程が経つ。

 私は大阪で秋元松代脚本蜷川幸雄演出の『近松心中物語』を上演していた。「近鉄劇場」でのことである。秋元・蜷川の記念碑的作品となったこの芝居は大阪でも大当りしたが、公演も終りに近づいた或る日、昼夜の間の時間楽屋のスタッフの溜り場に突然三木のり平がヒョイと現れた。別の劇場で何かやっているのは知っていたが、それにしても珍らしい。珍客だ。

「おやお珍らしい。御無沙汰してます。誰かの楽屋に?」

「いやあそうじゃねえんだ。 実は昨日の昼の部こっちが休みだったんでこの芝居見たんだよ。よかったよお。本当によかった。凄くいい芝居だよ。」

 それから賛辞が続いた。 これを言いに来たのか。私は驚いた。 わざわざこれを言いに、自分の方のわずかな時間の合間に、こっちの劇場まで三木のり平が、偏屈で人見知りでへそまがりの、滅多に人を誉めない三木のり平が足を運んだのか。感慨があった。

「蜷川を紹介してくれよ。」のり平が云った。 私は喜んで二人を引き合わせた。”演出”というものに一家言あるのり平は、「近松」の演出のディテイルのそこここを具体的に例をあげて褒め、喜んだ蜷川と二人珍らしいとり合わせで話が弾んだ。

 蜷川幸雄と意気投合している三木のり平は私の若い頃とは別人の様だった。


(長い間ご愛読いただきました「愛しき面倒な演劇人名プロデューサーが明かす知られざる素爛」は今回を持って終了させて頂きます。なお3月より同じく中根公夫氏の新連載が始まります。どうぞお楽しみに。)

#演劇 #プロデューサー #三木のり平