中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

大野一雄 神格化された天才芸術家の見えない素顔

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(23)ー(悲劇喜劇2021年7月)

 舞踏家大野一雄が希代の芸術家であることは、その実績からも世界各国での評価を見ても、論を俟たないことであろう。本稿を書くに当っても、演劇人ではないではないかという声もあろうかと思うが、そのような見方に対しては、大野一雄をする評する澁澤龍彦の言葉 「空虚の中を泳ぎまわる悲劇役者」という一言を紹介するだけで充分だろう。

 またその盟友であり、共に「舞踏」という芸術の創始者である土方巽が喝破した至言、

「舞踏とは、命がけで突っ立っている死体だ。」

に言及するだけで大野一雄の舞踏に関する舌足らずの説明など必要としないだろう。


 私は大野さんとは、1980年に大野さんが始めての海外公演として、フランス・ナンシーの演劇祭に参加した時の渡航の飛行機の手配を手伝った時から係わりを持った。

 私はこの時一緒にナンシーには行けなかったが、このナンシーでの舞路は、特にサン・フィアック教会の内部で、いわばキリストの前で、後の大野さんの言葉によれば、“ユダとして”心ゆくまで踊るという異常な体験をすることによって、大野さんの人生の中で劃期的なものとなったと聞いている。(御殿、空を飛ぶ。」一九八九年思潮社)

 キリストの前で踊るのは良いとして、“ユダとして“在ると想いながら涙を流して1時間も踊るというのは、一体どんな深い悔恨が大野さんにはあったのだろう。

 ちなみに大野さんは早く1930年にバプテスト派のクリスチャンとして洗礼を受けた信者であり、又日中戦争中は陸軍少尉のち中尉として5年間戦場にあり、第二次大戦末期は2年間ニューギニアに大尉として転戦した、師団司令部主任情報将校であった。舞踏家大野一雄とクリスチャン大野一雄との落差は大きいが、私が見てった写真の情報将校の中尉の軍服姿で軍刀を手にした大野さんとの差は甚だしく大きい。 大野さんはクリスチャン・情報将校・舞踏家のそれぞれの矛盾をどう埋めたのだろうか、埋められなかったのだろうか。

 舞踏の成果としての大野さんの公演のかずかずは完全にそれ等を埋め、止揚して、更に高みに至っているかに見える。


 1985年イタリア・リミニでの野外公演では、私は大野さんに完全に圧倒され、私の魂は一瞬天外に飛んだ。 仮設された野外劇場はリミニ郊外の丘の上の僧院の庭にあり、間近アドリア海を望んで、舞台の下手の脇には小さな小屋程の大きさの古風な中世の礼拝堂を配し、仮設舞台の真中にはもともとそこに生えていた1本の木を生かして舞台に小さく穴を開けを生やしてあり、木には丁度季節の紫色の花がいくつか咲いているという、理想的なシチュエーションであった。僧院の上に空は高く晴れ、海風はやさしく吹いて夕刻のイタリアの海辺の街に近い丘の上からの景色はこの上なく美しかった。

 大野さんの舞踏「睡蓮」は始まった。微風のなかそれは典雅であった。満員の客席は静まりかえり、大野さんが舞台中央の名も知らぬ木に咲く紫の花とたわむれている、“お遊び”の時間を一緒に心から楽しんでいるようだった。

 とその時、静謐な舞踏の時を切り裂くように、丘の麓の方から轟音が攻め上って来た。

 近くのイタリア空軍基地からスクランブル発進をしたらしい2機のジェット戦闘機が超低空で頭の上をかすめたのだ。すさまじい爆音と、ジェット機2機の禍々しい噴気の火花は、文明の暴力そのもののように、優雅この上なかった舞踏の場を襲った。観客全員と吾々スタッフは呆然とジェット機を見上げながら、大野さんを目で追っていた。

 すると大野さんは紫の花のかたわらで踊りながら立ちつくし、ジェット機をやわらかに、あくまで優雅に、ふと微笑みながら、見上げるともなく目をやった。その時大野さんの存在はとてつもなく巨きく、ジェット機は矮小なつまらぬ玩具のようだった。

 それは決定的瞬間だった。 ざわめきかけていた観客はすっと息をのむようにして全静まり、ジェットの噪音が虚空の中に吸い込まれて行くのを聞きながら、大野さんの屹立を目のあたりにしていた。

「実存は本質に先立つ。」私はサルトルのこの言葉の見本を見せられたように感動し、「舞踏は立ちつくすことであり胎児の始めの叫びである」という大野さんの言葉どおり、その場に釘付けになって動けなかった。

 その時私は“舞踏”の何たるかを感得したのだった。

 アドリア海の上に月が出て僧院の中庭はその本来の威信をとり戻し、舞台脇の礼拝堂の中の沢山の蠟燭には灯がともされて、動いているのは大野さんの舞踏と上空で飛ぶ蝙蝠だけだった。

 しかしこの夜の舞蹈はそれで終らなかった。長い拍手と全総立ちのカーテンコールの中、大野さんは突然ふわりと舞台を下り、観客の前を横切って踊りながら傍らの小さな礼拝堂に入って行ってしまった。そして何十本もの燭の火の間を祈るように踊って、祭壇の古風な中世の十字架に近づくと、架けられたキリスト像の釘を打たれて傷ついた足に接したのだ。

 観客は本当にどよめいた。イタリア人たちはショックを受けたのだ。

 大野さんは何事もなかったかのように静かに退場して楽屋に入ってしまったが、観客たちは納まらなかった。

 僧院長の神父を、帰りやらぬ数十人がとりまいて議論が始まった。あれはどういう事だ。キリストに対して敬意を欠くのではないか。パードレ、説明して下さい。

 その場に残った日本人は私だけだった。フランチェスコ派らしい茶色の僧衣をまとった神父は大きなお腹を困った様に両手でさすりながら私に助けを求めた。

 私は仕方なく意を決して私が感じたままを話した。

「皆の衆、先ずシニョール・オーノは篤い信仰で知られたクリスチャンである。」 皆の衆は口々に意外だという意味のオーという声を発した。

「そして皆さん、さっきのこの礼拝堂での彼の振る舞いは、彼の舞踏によるコンフェッシオーネ(懺悔・告解)であると私は思う。」

 神父さんは大きく両腕を拡げて賛意を表し、その場に居た百人に近い人々は納得した様にうなづいたり或いは十字を切ったりしながら思い思いに帰路について行った。


 私のこの勝手な解説が正解だったのかどうか、大野さんには聞かずじまいだったので、本当には分らない。

 しかし、十字架の前で懺悔する程の罪を大野さんは犯したのだろうか。

 私がコンフェッシオーネという言葉をふと口にしてしまったのは、大野さんの軍服姿の写真を目にした為だ。帝国陸軍中尉姿の大野さんは全く非のうち所の無い程の凛凛しい師団司令部主任情報将校であった。しかし5年に及ぶ中国戦線現場について大野さんがその自伝的大著 「御殿、空を飛ぶ。」の中の履歴で述べているのは、わずか5行である。90歳の時の北海道新聞のインタビューでも中国での話は数行、驢馬が食料ごと崖から落ちたというような牧歌的なエピソードのみ語られていて、他にはさらりと。“現地の人を使って情報を集める”と述べるのみである。5年の戦場経験についてこれだけかと思うのは私だけであろうか。大野さんは語りたくない戦争体験を持っているのではないだろうか。

 勿論これは私の臆測である。

しかし「御殿、空を飛ぶ。」の中には異常に鋭くこの間の大野さんの内面を描いている人もいる。芦田之氏の一文"大野一雄試論“ Ⅲー供儀と遊戯ーである。

 芦田氏は中国戦線での大野さんについては一言も触れていないが、次の様に述べている個所がある。いずれも私にとって腑に落ちる又はかねがねそう思っていたことなので抜き書きさせて頂く。


「大野一雄が心の奥に蔵ってゐる悲しみの大きな塊り。 悔恨。救ひを求めて止まぬ激しい叫び、願ひ。……

 大野一雄が安易な救済をみづからに許さない厳しさを持ってゐるのは、安易に救はれてはならない恐ろしいなにかを、みづからのうちにはっきりと見据えつづけてきたからだ。……」

「大野一雄は初めて會ふ人に対しても、ほんたうに倒れり壺くせりの気配り方をする人である。……誰に對するしてもさうなのである。痛々しいまでに気を配り、下にも置かぬその愛想のよさは、よく考えてみると、どこかおかしい......大野は必死で演技をしてゐるのではないか。自分が「ひどい奴だ」といふことを痛いほどに分かってゐるので、決して人に気を許さず……」

 まことに私は自分の大野さんとの経験からしても腑に落ちた。 過剰な愛想のよさの裏がえしは即ち”うしろめたさ”である。

......「自らを厳しく断罪し、人に見せてはならない恐ろしいなにかを抱えて生きてきた大野にとって……」

 それこそがリミニの礼拝堂で”舞踏〟の最期に、大野さんにあのような行動をとらせる恐ろしいなにかなのではないだろうか。

 これ等の断片は私が恣意的に抜き出した臆測の集積に過ぎないかも知れない。しかし私には、自伝的大著「御殿、空を飛ぶ」の323頁に及ぶ大野さん自身や他の人々の記述の中で、駐屯地でのほほえましいエピソードのようなものを除き、中国での戦争について、あまりにも無言であることが、どうしても気になるのである。


 1988年ニューヨークのアジアンソサエティでの「睡蓮」の公演を私は少々手伝った。公演は上手く行き、終演後達成感と共に楽屋で着替え始めた大野さんを囲み、 我々は無言でその日の成果を祝い合っていた。大野さんの楽屋は、舞台事務所の前をまっすぐ通る長い廊下の突き当たりにあった。その端の楽屋口から一人の女性が入ってきてこちらに向って来るのが見えた。遠目にも判るピナ・バウシュだった。「大野さんピナ・バウシュが来たようですよ。」 大野さんは衣裳を脱いだ下着のまま、まだメーキャップはおとさずの格好で廊下に出て、大きく腕を拡げ、たちまち舞踏になってピナを迎えて廊下をすすみ始めた。ピナも応じて彼女のスタイルの踊りでゆっくりと近づき始めた。二人はそれぞれ踊りながら廊下の真中で出会い、ひしと抱き合った。貴重な美しい数分だった。大野さんは胸の中にピナの頭をかき抱いて撫でまわしいとおしんだ。

 大野一雄とピナ・バウシュが演じた数分間の舞踏の一シーンに私は賛嘆して立会った。観客は私と大野慶人の二人だけだったが、踊り手二人は愛に満ち、深く強く人間を肯定するように私には思えた。


 この頃大野さんは“老子”に傾倒するようになり、老子から多くの示唆を得て、”宇宙の分霊”という考えにたどりついたと云っている。(1997年北海道新聞、90歳のインタビュー)

 舞踏についても、この考え抜きでは成立しない、とまで云っている。キリスト教との整合性についてはよく判らない。どなたかの智見を賜わりたい。鍵は老子の宇宙論と、人間の誕生の、生命が成立する瞬間、母の胎内で起きることとの関係にあるのではないかと思う。


 大野さんは90歳を過ぎるまで観客の前で踊っていたという驚くべきんだが、長命を全うして、103歳まで生きた。100歳の時長寿を祝って横浜の劇場でお祝いのイベントが開かれたが、大野さんは子息慶人の押す車椅子に乗り、タキシードの正装で舞台に出た、車椅子で舞台をグルグル廻るとあちこちの観客が叫ぶ、「オーノ」「大野ー」のかけ声に応えて、声のした方に微笑み、手を挙げて挨拶するかのように軽く動いた。舞踏になっていた。それは大野さんが語る、瀕死の床の土方巽の手だけの舞踏にそっくりだった。

 そして大野さんのこの最後の舞は、諸人に対する惜しみない愛と、この世界と人間そのものへの絶対的肯定で揺るがぬものであった。

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