中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

三木のり平 困った人

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(26)ー(悲劇喜劇2022年1月)

 本当に困った人だった。こっちが演出部だったりプロデューサーだったりした時は、全く付合いきれない人だった。

 しかし舞台の上や映画の画面では、可笑しいことこの上無い人だったことは万人が知っている。

 あんまり可笑しいので前歯を折ったという客が居た。旧宝塚劇場で菊田一夫の喜劇をやっている時、のり平と八波むと志(事故で早世した当時売り出しの喜劇役者)の2人の場面のこと、あまりの大受け満員の客席は全体が笑いで大波を打つ様に動いていて、笑い声の総量は二千数百人分、劇場のドアがポンポンとハチ切れるのではないかと云うばかりのすさまじいものであった。その時2階席最前列に座った一人の客が、皆と同じ様に、身体を大きく前後に揺すってボートを漕ぐ様になって笑っていたが、前に身体を折った拍子に目の前の真鍮の手摺に前歯をガーンとぶつけ2本折ってしまった。客は怒って、のり平がこんなに笑わしたから歯を折った。けしからん。これは東宝の責任だから歯の弁償をしろと劇場支配人の所に怒鳴りこみ、支配人は弁償を拒否して、これが又新聞の芸能ネタになる、という60年代初めのおおらかな時代の話である。

 のり平伝説の様なものは数多く巷聞に流布していて、セリフを覚えないなんというのはその最たるものだろう。だからいちいちここでは書かないが、私が目撃した一例は、例の知く覚えていないのり平に先輩演出部員が舞台の道具の陰からセリフを付けていたのだが、この伊藤厚先輩は少々ドモル癖もあってなかなかセリフが通じない。そしたらのり平はいら立って舞台の上で「聞こえねえよ下手っくそ」と言ってしまった。伊藤氏は気も短いのでカッときて台本をほうり出し、以後のセリフ付けをキッパリ止める。のり平は焦って伊藤氏を蹴とばしに来たり、「エエ?聞こえねえよ」と大きな声を出したり色々するが、伊藤さんは頑としてセリフを付けない。

 到頭芝居はハチャメチャのまま休憩時間になるが、暮切れセリで下りて行くのり平に、伊藤さんは頭の上から大声で「ざまあ見ろ!」と浴びせ、のり平は下りて行くセリの中で地団駄踏んで悔しがって、演出部一同セリの上をかこんで大笑いしたあげく胸のつかえが一気に下りた。

 時間を守らないのものり平伝説の一つだが、開演時間だけでなく、終演時間が毎日20分~25分も早く終るという奇怪な現象に私は首を傾げた。 新橋演舞場でのことである。のり平の付人、恋人の三浦にさぐりを入れると案の定のり平が芝居を端折ってこの所毎日二十分以上短く終り、終演後も走る様に楽屋を後にするという。そんなことがもう3日も統いている。只事でない。

 楽屋に行って厳しく訳を問うた。そしたらしれっとして云うではないか、”『刑事コロンボ』の連続再放送に間に合うように帰んなきゃいけないから。”” コロンボ”を見る為に芝居を大巾に端折られては金を払って見に来てる客はたまらない。こんなことをやってるから東京の喜劇は駄目になったのだ。私は怒り狂って仕返しをすることにした。

 毎日朝の開演時間ものり平は守らない。「化粧が間に合わない」「楽屋に客が来てる」となんだかんだ理屈をつけては開演時間をよくて5分ひどい時は10分も遅らせる。 なに毎朝寝坊して楽屋入りが遅く、楽屋に入ってもぐずぐずしているだけのことだ。

 のり平はこの芝居(もう題名も忘れた小野田勇のどうしようもない芝居だった)の幕開けから出ている。私はこの時演出部で舞台監督、開演のキューは私が出す。のり平の出は音楽と共に花道の揚幕からだった。

 私はこの日開演の放送と同時に容赦無く音楽のキューを出し緞帳を上げてやった。のり平はまだ楽屋に居た。開演の音楽が鳴ると同時にドタドタドタと大層な足音がしてのり平が揚幕に走って行くのが判った。空の舞台に音楽が鳴る間抜けな数十秒の後、更に花道を走って本舞台に入ったのり平がぜエゼエ息を吐きながら幕開きのセリフをやっと言った。 私は上手の袖からのり平にだけ聞える様に小さい声で言ってやった。 「ざまみろ。」

 その時の東宝演劇部の私の上司の名は伊藤厚。のり平に呼ばれて揉め事になったが、どっちが悪いという話に無論伊藤さんは耳を貸さず、舞台監督は事故の無い限り時間通り幕を開けるものと押し通してくれた。「ざまみろ」の件はのり平も敢えて口にしなかった。


 時は移って、といっても2、3年後、私はプロデューサーになっていて、宝塚劇場で三木のり平主演の公演で小島亢プロデューサーの製作補として2本立の前物を担当していた。この公演の顛末は”井上ひさし”の項で少し書いたが、要するに2本立の1本目を新人の井上ひさしに書いてもらって、三木のり平にも古今亭志ん朝財津一郎その他当時の喜劇人集合の新機軸の喜劇を成立させようという私の野心的企画が、井上ひさしが書けずに壊滅したのだったが、この公演では”のり平遅刻事件”という大事件が起きて、井上ひさしの遅単に拍車を掛け、公演の迷走に更に打撃を加えることになった。

 それは全く間の悪いことに記者招待日の昼の公演のことだった。 宣伝部と演劇記者会が話し合って決める演劇記者総見の日の12時の開演にまたものり平は遅刻したのだ。のり平が楽屋入りしたのは開演時間を5分か10分過ぎていたと記憶する。 記憶があいまいなのは私自身のり平楽屋入りの現場に居なくて、前夜のりが泊っていた帝国ホテルの部屋に走って行っていたからだ。ルームナンバーは予め付人の三浦から秘密情報として聞いていた。 “秘密”なのは女がからんでいたからだ。それが東宝現代劇のA女であることも私はつかんでいた。この場合そんなことはどうでもよかった。部屋の前に駆け付けた私はベルを鳴らした。押し続けた。 応答は無い。ドアをドンドン叩き続けた。応答は無かった。私は行き違いと思って、走って1分の劇場楽屋口に戻った。のり平は丁度着いていた。私がいたのと30秒の差だった。私がドアを叩いた時のり平がA女と中に居たのかどうか永遠の謎である。

 しかしその時幕は開いていた。厳格にして杓子定規の所のある小島亢チーフプロデューサーは、とっさの間に器用な荒木将久という役をのり平の代役に立てて、井上ひさし作と称する実は東宝の山崎博史の一夜漬け作品『満月祭ばやし」の幕を上げてしまったのだった。

 客席の演劇記者会は二重に怒った。全員がカンカンに怒った。芝居の2本目小野田勇作の『俺はお殿さま』には、のり平は涼しい顔で出演し目一杯爆笑演技をやっている。では何で1本目は荒木将久が演ったんだ。その上1本目の『満月祭ばやし』という井上ひさしなる新人の、この芝居は何だ。喜劇にも何にもなっていないお粗末そのもの。東宝は何でこんな新人を起用したんだ。 それにしてものり平は。休憩時間の記者達の詰間に、真っ直ぐな、融通の利かない性格の小島プロデューサーは正直に答えてしまった。「本人が一寸寝坊しまして。帝国ホテルに泊ってたんですが。」女の件は私は小島プロデューサーにも云っていない。結果的にこれは記者達の怒りの火に油を注いだ。

 翌日のスポーツ新聞芸能欄は大変だった「舐めるなのり平!!」新聞の寸法の横一杯に特大の大文字で見出しが出て、特集記事になってしまった。各紙竿を揃えてのり平の普段の遅刻癖やセリフを覚えないこと迄、今迄役者の愛嬌で済まされていたのがすべて裏目に出て、徹底的に攻撃され批判された。

 本質は案外気の小さいのり平は、身から出た錆とはいえさすがに死んだ振りで小さくなって楽屋に身を潜め、喜劇をやる精神状態ではなくなった。

 公演が終ってもしばらく世間に顔を出さなかった。 東宝との間も疎遠になって、誰ものり平で芝居をやろうと云う人は居なかった。

 1年程経ってのり平復活の機会を作ったのは又しても私だった。芸術座で京塚昌子の主演する長崎の女の豪商大浦お慶の愛人役に三木のり平を企画し、東宝の上層部も、もういいんじゃないかということで、小幡欣治に一本書いて貰うことになった。「あねしゃま」と題するこの芝居で、三木のり平は至極真面目に舞台を勤め、ドタバタ喜劇の演技を全く封じ、太った京塚昌子の愛人役をリアルに控え目に演じたが、やればやる程何ともいえぬ可笑しみと人間味が滲み出ていい芝居になった。

 演劇記者や批評家たちも改めて三木のり平という役者の存在意義を知った様だった。


 年を経て80年代も初めの頃、私は74年に蜷川幸雄を日生劇場に起用して以来、ずっとそちらにかまけて三木のり平とは仕事をしなくなっていた。10年程が経つ。

 私は大阪で秋元松代脚本蜷川幸雄演出の『近松心中物語』を上演していた。「近鉄劇場」でのことである。秋元・蜷川の記念碑的作品となったこの芝居は大阪でも大当りしたが、公演も終りに近づいた或る日、昼夜の間の時間楽屋のスタッフの溜り場に突然三木のり平がヒョイと現れた。別の劇場で何かやっているのは知っていたが、それにしても珍らしい。珍客だ。

「おやお珍らしい。御無沙汰してます。誰かの楽屋に?」

「いやあそうじゃねえんだ。 実は昨日の昼の部こっちが休みだったんでこの芝居見たんだよ。よかったよお。本当によかった。凄くいい芝居だよ。」

 それから賛辞が続いた。 これを言いに来たのか。私は驚いた。 わざわざこれを言いに、自分の方のわずかな時間の合間に、こっちの劇場まで三木のり平が、偏屈で人見知りでへそまがりの、滅多に人を誉めない三木のり平が足を運んだのか。感慨があった。

「蜷川を紹介してくれよ。」のり平が云った。 私は喜んで二人を引き合わせた。”演出”というものに一家言あるのり平は、「近松」の演出のディテイルのそこここを具体的に例をあげて褒め、喜んだ蜷川と二人珍らしいとり合わせで話が弾んだ。

 蜷川幸雄と意気投合している三木のり平は私の若い頃とは別人の様だった。


(長い間ご愛読いただきました「愛しき面倒な演劇人名プロデューサーが明かす知られざる素爛」は今回を持って終了させて頂きます。なお3月より同じく中根公夫氏の新連載が始まります。どうぞお楽しみに。)

#演劇 #プロデューサー #三木のり平

ジョン・マーク 天皇陛下とジョン・マーク

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(25)ー(悲劇喜劇2021年11月)

 “ジョン・マーク”は、1968年東宝が帝劇で上演した、ロンドン発のミュージカル「オリバー!」の主役オリバー少年を演じた当時7歳の少年であった。イギリスの法律で5月から7月迄3ヶ月もの上演期間の子供の渡航は学校の関係で不可ということで、彼は他の15人の少年達と共にニューヨークでのオーディションで選ばれたアメリカ人である。

 ジョン・マークは美しい少年だった。輝くような金髪に丸小さな碧眼、真白な肌に大き過ぎない口の紅い色、とラファエロの描く天使のような愛くるしい可愛い子で、東宝宣伝部総がかりの大売り出し工作でたちまちのうちにテレビ雑誌のグラビアを埋め尽し、メディアのあれこれにジョン・マークの出ない日は無い状態となり、5月5日の初日のはるか以前に、ジョン・マークは“オリバー坊や”と呼ばれる日本の一大アイドル少年になった。

 しかし完璧な天使にも問題はあった。家庭環境だ。両親は早くに離婚して母親ひとりに育てられたが、子供ひとりに保護者ひとりが付いて来た来日の時点で、母親のヘレンはアルコール中毒だった。殆ど一日中酒臭かった。そして未だ30そこそこの若さのヘレンは酒を呑むと男が欲しくて欲しくてたまらなくなった。私達東宝側としては、天使ジョン・マークの母親のこの状態を3ヵ月マスコミに隠すのに大変な苦労をした。バレたら天使は天から墜ちてしまう。今まで持ち上げるだけ持ち上げていた日本のマスコミのそういう場合の容赦の無さは考えるだに忌わしい。 その時点で観客の入りがガタ落ちになるのは火を見るよりも明らかだ。一方火の点いたマスコミは毎日毎日ジョン・マークの日々の動静を聞いて来る。聞いて来るだけでなく、各社競争で様々な取材を仕掛けて来る。

 一方ジョン・マークにはもう1人ダブルキャストの、ダリル・グレイザーという主役のライバルの少年が居た。 ダリルは9歳でジョンより年令も上だし、「オリバー!」の出演経験もブロードウェイですでに2年。ジョンよりずっと格が上だ。但ジョンの様には全然可愛くない小面憎い子であった。

 当然ジョン・マークの母親ヘレンとグレイザー夫人は犬猿の仲、グレイザー夫人はヘレンを軽蔑し切って口も利かぬ間柄。我々は年中酔っ払いのヘレンと謹厳実直夫人のグレイザーが何時大喧嘩して、それが外に洩れ、マスコミの餌食となるかと爆破装置を抱える思いであった。

 もっと大きな問題もあった。ジョン・マークが余りにもアイドル化してテレビ出演やコマーシャル出演の申し込み、ファッションやら他分野からの撮影のオファー、インタビュー等々が東宝宣伝部に殺到するに至ってミュージカル「オリバー!」とジョン・マーク人気との乖離現象が起き始めたのだ。「オリバー!」の宣伝については宣伝部がよろしく奮闘していたが、原作は英国の著名な作家チャールズ・ディケンズで、ストーリーは孤児オリバーが偶然金持の祖父に見出されて云々と云っても、日本のマスコミが見出し一行で要約しチケットを買いに行く動機にはなりにくい。 ブロードウェイ・ミュージカルの様な派手さが全然無い。

 ここへ来てジョン・マーク人気の異常現象と「オリバー!」のチケット購入という現実は日を追って遠く乖離して行き、5月5日子供の日”初日から7月20日夏休みまで、大きな帝劇の客席を家族連れの客で埋めるという東宝の冒険的目論見は先行きが煙しくなって来た。

 そこで駆け出しの若手プロデューサー、弱冠29歳の私の頭が天才的にひらめいた。

 きっかけはロンドンからの資料の中の新聞の見出し”女王は「オリバー!」を再度見にいらした“である。エリザベス女王が2度御覧になる程すぐれたミュージカルで、それは又イギリスの上流階級もこのミュージカルを認めたということである。当然第1に浮んだのはイギリスを真似て、天皇陛下を御招待するということだ。

 しかし、この頃はまだ昭和天皇の時代。御高齢のことでもあり、第一天皇を劇場に招待するなど想像もつかないという頃である。天皇にこのアイデアが行き着く迄の気の遠くなる様な道のりを想うと実現不可能と思わざるを得ない。

 資料を見ればジョン・マークは1960年6月3日生まれの満7歳。初日の5月5日こどもの日を過ぎてすぐに8歳、日本で云えば小学2年である。所がなんと、なんと、徳ちゃんと国民の多くが愛称で呼ぶ、浩宮徳仁皇孫殿下(現天皇陛下)は学習院初等科3年、1960年2月23日生れの満8歳。ジョン・マークと同い年でいらっしゃるではないか。浩宮さまを、徳ちゃんをオリバーにお招びしたら、国民全体のアイドルとなって8年になる徳ちゃんとジョン・マークのイメージは相互作用を起し、我々の抱える懸念は一掃され「オリバー!」は国民皆が愛するミュージカルとなり得る。

 皇室を宣伝に利用するという向きもあるかも知れないが、浩宮さまも初等科3年、ロンドンですでに8年目のロングランとなり、ニューヨークでも世界のその他の多くの街でも大ヒットのロングランを続けている、ブロードウェイ・ミュージカルとは一味違った演劇的文学的作品を御覧になるのが悪からうはずがない。その辺りの文句が出たら、1945年に学習院初等科に入学した、ナルちゃんの大先輩の私が、四谷の学習院に乗り込んで初等科の先生なり、宮内庁のお役人なり、説得して見せる、と東宝の会議では啖呵を切って、尻込みする東宝の古い面々を乗り切った。

 所が皇室にはその頃まだ学習院人脈が生きていて、浩宮さまの侍従浜尾実という方が学習院出身であることが分った。それを話していて浜尾さんへのアプローチをどうしよう、侍従から話すのが一番早そうだ、という時に横から演出部のチーフ古川清が突然割って入った。「僕、浜尾とは親戚だけど。」「なぬ、ほんとに?」考えてみれば古川清は古川ロッパの息子、ロッパはそもそも男爵の出。浜尾さんと親戚で不思議は無い。「すぐお目にかかり度いんだけど一寸この話手伝ってくれる?」「いいよ。」電話を手にとってその場で4月某日何時宮内庁で私と古川清で面会と、約束をとってくれた。ツキは我に有り、この話上手く行くかも、と望外の幸運に勇み立って浜尾さんとお目にかかった。古川は慶應だが、最初から当方は学習院の後輩と通じていたので、浜尾さんはこちらの話をとても丁寧に聞いてくれた。こういう場合学習院の先輩は後輩の持ち込む相談を決して悪いようにしない。

 翌日午後には浜尾さんから電話を頂き、五月五日のこどもの日、初日の公演を浩宮様は御覧になる、警備その他事務上の打合せは近日中直ぐにでも双方の事務方で、と完璧且速やかで、その夜私は有頂天のあまり酒に走った。


 5月5日の手配をした。一番問題となる取材の記者やカメラマンへの対応。何しろ今回申し込んで来た数が凄い。 芸能・文化部だけでなく社会部記者までその他多勢。テレビ全局。浩宮さまをジョン・マークとダリル・グレイザーがお迎えすると流したからだ。警備との兼ね合いを色々考えた末、結局宮さまは入口にはスッと入られて2階に直ぐ上り、2階にある貴賓室の前にまとまって構えているカメラと記者たちの前で、その場でお待ちしていたジョン・マークがカメラから見て右側の手前、ダリル・グレイザーがその向う側で、左側の宮さまから握手を賜わる。 背景には菊田一夫と、英国側のジェネラル・プロデューサー、ドナルド・オルベリーが立つという構図で落着。取材側も、宮さまとジョン・マークの握手の写真を完全に保証されて大納得。

 みんなが期待して浩宮さまをお待ちした。 ジョン・マークもダリルも衣装の空色のモーニングでおめかししダリルは少し緊張気味ジョンは天真爛漫にニコニコしている所へ、下から営業係若手の伝令が走って来た。青ざめて引きつっている。耳元でささやくのを聞いて私も血の気が引き、倒れそうになった。只今殿下御到着。入口を入られる所で佇立してお出迎えする整備の人や帝劇、東宝の人員の間から突然割って入ったジョン・マークの母親が、宮さまの手を取って「ハアーイプリンス アイアム ジョンマークスマザー!」と叫びながら無理に握手をしたとのこと。無論ヘレンは酔っている。

 私は頭に血が上ったが報道陣の手前、全く平静を装わねばならぬ。バレたら全てが台無しだ。 幸い数十人の取材は全員2階に固めてある。

 宮さまは、酔っ払ったアメリカ人のオバサンの突然の失礼にも全く動ぜず、何事もなかったかの様に到着した。 そして先ずダリル・グレイザーに、そしてジョン・マークに握手を賜った。その振舞いは将来の天皇にふさわしく、8歳の威厳を保ち、立派であった。背筋を真っ直ぐにのばし、自然に手を差し延べて。ジョン・マークは子供らしくニコニコしながら握手をし首を垂れた。

 素晴らしい瞬間だった。騒々しいくらいにカメラのシャッター音とフラッシュが集中した。徳ちゃんほその方に少し驚かれた様だった。そして2人の少年は舞台へと走り、宮さまは貴賓室へと入られた。私は公演の成功を確信した。

 ナルちゃんとジョン・マークの握手の瞬間の写真はありとあらゆる新聞雑誌のハイライトとして誌面を飾り、テレビはNHKの当日7時のニュースを始めとして、全局の”こどもの日”のトピックとして国民すべてが見るところとなった。

 ジョン・マークのおっかさんのことは誰の関心も引かずに、又宮内庁側からも粋なことにとりわけ注意も無く、暗黙のうちにすべてが済んだ。

 浩宮さまはこの初めての観劇に大変に興奮され、その夜宮邸に帰られても興奮収まらず、ソファの上を舞台に見立ててその上に乗り、昭和天皇始め御家族の皆様にこのミュージカルを実演して再現して御覧に入れた、と仄聞している。

 それから23年経った1991年、浩宮は皇太子殿下となっていて、イギリスで開かれたジャパン・U・Kフェステイバルの総裁を勤められ、「タンゴ・冬の終わりに」でそれに参加した私も、冬になって宮邸で開かれた慰労パーティーに招ばれた。殿下はウィスキーを豪快にガンガン呑まれながら談笑していたが、私はふと殿下に尋ねた。

「初等科3年の時、帝劇で「オリバー!」というミュージカルを御覧になったのを覚えていらっしゃいますか」

 殿下は満面笑みを浮かべて答えられた。

「オリバー!あれは面白かったですねえ!あの時『ジョン・マークさん』と『ダリル・グレイザーさん』に会いましたねえ!」

 殿下はジョン・マークのみならず、ダリル・グレイザーの名まで覚えていらしたのだ。私は驚き、感動した。

 ジョン・マークがその後どういう大人になったかは、誰も知らない。

#演劇 #プロデューサー #オリバー!

清水邦夫 ロンドンの晴舞台

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(24)ー(悲劇喜劇2021年9月)

 清水邦夫は私になつかない人だった。

 抑々のお付き合いは、1982年に日生劇場で上演した、「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」という、例によって長い題名の芝居を書いてもらった時に始まる。この芝居は私が企画した新潟のデパートに実在した少女歌劇団の話から創作してもらったもので、「三十人のジュリエット」というのが実際は40人になり、この40人を淡島千景、久慈あさみ、甲にしき、以下の全員宝塚歌劇団のO・Gが出演する、という思い出しても背筋が寒くなる体験をさせてもらった。だから清水邦夫というと、この宝塚のジュリエットたちの大変さを思い出して、いい印象は無いのだ。大体始めから原稿が10枚15枚と書き上ってきても、私に直接それを渡さず、演出の川幸雄経由で渡して来るのだ。 私に会って原稿を渡すと、「東宝」が直接立ちはだかって来るようで嫌だ、というのが蜷川経由で原稿を渡す理由であった。私の方はプロデューサーとして役割を果せないし、第一面白くない。

 人になつかない人だがかつてコンビを組んで仕事をしていた蜷川とは、ずっと離れ難い絆が切れていなかったようだ。

 しかし、私が蜷川を1974年東宝に誘った為に、そのコンビとしての仕事を解消せざるを得なかった歴史的事実がある。だから私にはずっと含むところがあったのだろうか。それらを考え合わせて、清水邦夫 腹の小さい男というのが、この頃の私の思い込みであった。

 

 だからその時、ヴァージン航空のロンドン行きの機内で、半分眠っているところを起された時は少しびっくりした。

 私は清水夫妻を伴って、「タンゴ・冬の終わりに」のロンドン公演の12月7日から10月26日に早まった千秋楽に間に合うべく、ヴァージン航空アッパークラスの東京・ロンドン便に乗り、東京を飛び立った所だった。「タンゴ・冬の終わりに」は、清水さんの脚本で、英訳して、ピーター・バーンズという英国の脚本家に脚色してもらい、ロイヤル・シェイクスピア劇団に所属歴があってその頃「ダイ・ハード」などのハリウッド映画でメジャーな国際スターになり始めていたアラン・リックマンを筆頭に、全て英国の俳優により、蜷川幸雄の演出、スタッフは全員日本勢で、8月8日から10月7日までエジンバラ・フェスティバル、8月23日からす12月7日ロンドン・ウェスト・エンドの一流劇場ピカデリー劇場で長期上演するという、一時代を画する大公演である。勿論この全てを仕掛けたのはプロデューサーの私と私の会社ポイント東京社だ。

 

「中根さあん」

 なんだ、 なんだ。清水さんの方から、飛行機の中で寝かかっている私に話しかけて来るなんて全く珍しい。身を起こして、はいはいはいと見ると、清水さんは満面に笑みを浮かべて、手にはシャンパンを持っている。後ろの松本さんも同様だ。

「中根さん、乾杯しましょう。 カンパイ。」

 ここに至る諸々のインシデントで、カンパイをここでするという気分に無かった私は、いささか面喰らったが、それでもヨッコラショと立上った。

 そうか、嬉しかったのだ清水さんは。自分の作品が英国で、英語で、英国人の役者で、8月8日のエジンバラから、来週、ロンドンの千秋楽迄、3ヵ月近く上演されるという、日本の劇作家として、いわば異常なこの状況が心から嬉しかったのだ。

 私もグラスにシャンパンを注ぎ、シベリア上空あたりで、3人でカンパイした。

「おめでとう、カンパーイ。」「カンパーイ。」「カンパーイ。」

 シャンパンを呑んで私も高揚した。明治以来の演劇の輸入。演劇の「本場」は時にロンドンであれモスクワであれニューヨークであれ、一生懸命外国語を翻訳してシェイクスピアからロイド・ウェバーまで、輸入にはげんだ、植民地の文化のような状況に、今、一矢を報いることが出来たのだ。

 日本の現代劇が自然に、知らぬ間に翻訳され、普通にどこかの国の演劇人が上演しているように、そのような状態こそが自然でありその逆の状態が普通になっている日本の演劇状況に何故苛立ちを覚えず、下北沢あたりで何千人動員したと満足しているのだろう。役者は渡辺謙を筆頭にやっているではないか。

 作家はグローバルな演劇市場の鑑賞に堪え得る作品を書くのを当然のこととし、演出家は(蜷川が出来た様に。ピーター・ブルックがそうであった様に)国際的な演劇シーンに身をさらして仕事をするのを日常茶飯事とすべきだろう。

 ところがこの時は10月半ばで、12月7日千秋楽の予定が、ロンドンは2ヶ月公演に縮めて10月26日に閉めると決定した為に、清水さん、もう閉めるよ、行くなら急いでとなったのだ。

 理由は二つあった。

 一つは明確な事故。チケット会社のキース・プロウズが9月の初めに倒産し、金を払ってチケットを持った客は劇場に来るが、その金は私の会社に永遠に入ってこないという、悲惨な状況が生じた為。

 二つ目は後に述べるが、イギリス中のは世界中のメディアが集まるエジンバラ・フェスティバルでの批評が、特に済水さんの脚本に対して批判が集中したことである。

 はっきり云えば、キース・プロウズの事故を乗り越えて公演を続ける、あわよくば12月10日を過ぎても無期限ロングランを続けるという、私の野望がそれによって潰え、公演続行が不可能になった為。

 この二つに尽きる。

 にも拘わらず、詳しいことは、特に批評については知らせていない清水さんは上機嫌であった。

 シャンパンが利き過ぎたようだ。

 飛行機はスムースにロンドン、ガトウィック空港に到着し、私達3人はヴァージン航空がサーヴィスする車でロンドン市内に向った。

 私は助手席に座ったが、運転手の英国人は気の利いた男だった。

「旦那、急がないんなら、高速に乗らず、下の道を、田舎の村々を通って行きませんか。この季節舎の景色は紅葉でおすすめですぜ」

 大賛成して下の道を行った。小一時間の道中は素敵だった。 清水夫妻は窓外のパノラマに、子供の様にはしゃいでいた。

 車は直ぐにロンドン中心部、グリーン・パークに程近いハーフムーン街の「フレミングスホテル」に到着した。 このホテルは古びているが快適で、蜷川始め、朝倉摂、吉井澄雄、本間明、小峰リリーという日本演劇代表団のような、 豪華スタッフ陣が全員泊っている。蜷川と私と演出助手の村井の3人は、キッチン、リヴィングルーム付のペントハウスに泊った。 みんなで打合せをしたり呑んだりするのに便利だからだ。清水夫妻の部屋はペントハウスの真下の大きめのツインルームだった。

 翌日、ホテルから歩いて10分程も無い、ピカデリー劇場の2階ロビーのバーで、役者達も出席して清水さんの歓迎パーティーが開かれた。役者達も清水さんに山程質問があるようだったが、開演前のこととで、そこは控えてウェルカムのムードに包まれたパーティーだった。

 その夜の公演を水邦人は奥さんの松本典子と共に見た。終演後上気した顔だったが ニコニコと上機嫌だった。しかし相変わらず、私には何の感想も言わなかった。

 私は終演後、清水夫妻と蜷川幸雄を、 ソーホーの中華料理店“富臨菜館"に招待した。ここはソーホーの中華の中で、裏通りにあるが、一番に旨い広東料理店で、私なりに心を尽して料理をたのんだが、グルメでない蜷川は一通りガツガツと平らげると猛烈な勢いでし始めた。主に7月の稽古中のことである。稽古初日に、アラン・リックマン始め役者達が皆すべてセリフを覚えていたこと、愛人役のビーティ・エドニーが役者達を代表してこれを投げろと灰皿をプレゼントしてくれたこと、そして話題はイギリスの役者達が如何に素晴らしくプロフェッショナルであるかということに移った。イギリスでは役者達は誰も付人やマネージャーの類いを連れていない。マネージャーなどは稽古場に入ることすら許されていない。 テムズ川の川畔にある稽古場はロフトを改造したもので、質素だが広く、しかしロンドン中心部からは地下鉄で10駅程も乗って行く所にあって、駅から稽古場迄は徒歩10分もある。タクシーに乗りたくなるが、タクシーを使っていたのはハリウッド映画に出て金持のアラン・リックマンだけで、しかしアランはいつもタクシーを駅で待たして置いて、地下鉄から次々降りて来るの役者達のだれかれ若い連中まで詰め込んで来てた。イギリスの役者たちは素晴しい。演技が素晴しい。みんな完璧にリアリズムの演技を身に付けている。中でも主人公の女房役のシュザンヌ・バーティッシュは凄い。ロイヤル・シェイクスピア劇団にも居た役者だがヒステリックになりそうになる内面を、物凄い力業で抑え込んで、静謐なまでの芝居をする。あんな役者日本に居ないな、な、そうだろ清水。

 清水はニコニコ笑いながら、ウンウンとうなずくのみである。その時松本典子は世にも不愉快な顔をしてソッポを向いていた。松本典子はそのシュザンヌ・バーティッシュと同じ役を84年の初演から日本でやっているのだ。

 蜷川は全然気付かず松本さんの存在や忘れて更に熱弁を振っている。

「な、だからよ、役者がいいから、芝居全体の熱とかエネルギーみたいなもんが桁が違って来るんだよ。」

 危い。危い領域に話が入って来た。

 イギリスの厳しい批評は、清水邦夫の脚本について圧倒的に厳しかったのだ。

「ピランデルロとマルグリット・デュラスの中途半端な折衷。」(サンデイ・インディペンデント アーヴィング・ウォルドール)

「この演劇が忘れ難い作品らしく映るのは、イメージや音楽によるムード作りのゆえであり、テーマや内容のせいではない。」(インディペンデント ポール・テイラー)

「見事な演劇性をもって展開するシンボリズムを持ってはいるが、生身の人間が十分描かれていない。」 (サンデイ・タイムス ジョン・ビーター)

 以下大同小異であるが、 敢て要約すれば、蜷川の演出とすぐれた役者達によって、ある演劇的情緒を作り出しているが、いかにもピランデルロ風の作品が、ピランデルロ流の人間描写にも会話の展開にも欠けている。ということだろうか。

 丁度次の料理が来たけれど、清水さん、帆立の紙包み蒸しなんぞニコニコ拡げてる場合では、本当はないんだよ。

 1ヶ月以上千秋楽を早めて芝居を切るというのは大変なことなんですよ。 私は実は大変な目に会ってるんですよ。

 蜷川が続けた。「おう、そういえば中根、あの床屋の”トランパー”のビルどうした。あれもあきらめたんだろ。」

「そりゃもう終った話だ。“タンゴ”があと一年も続いてればの話だからね。」

 実は7月の1ヶ月の稽古中、イギリスの習慣で毎週日曜日稽古は休みだった。我々日本側スタッフは、これはいいと毎日曜日ロンドンを満喫した。といっても、日曜日ロンドンは全ての施設も商店も同じ様に休み、ホテルでゆっくりするか、皆で街を散歩するしか無い。丁度その頃ロンドンは不景気のどん底で、街路毎に不動産の売り広告が7件や8件目立っていた。「家やアパート買うんなら今だねえ。」と朝倉さん。「そだそだ誰か買わねえか。」と蜷川さん。私は実は芝居が大当りして本当のロングランになったら、ロンドンにオフィス兼住居を構えて「ポイント・ロンドン社」を設立すると半ば本気で夢想していた。その買おうという不動産の第1補が、ホテルを右に出て五十メートル行った突き当り、カーゾンストリートの有名な理髪店「トランバー」が1階にある5階建の間口のせまい古い小さなビルで、丸ごと売りに出ていた。1番こういう話に積極的な小峰リリーさんがたちまち不動産屋に電話して、値段は2億円と格安で更に交渉の余地ありと、手の届かぬ額ではない。2階以上は現在空屋、5階はアパートメント仕様になっていると、更に更に魅力的。

「おい中根、これ買えよ、買えよ、みんなロンドンに来たらここに泊れるし。」と完全に買える気になっている蜷川。確かに毎朝みんな三々五々集まって朝飯を食う、シェファード・マーケットの“ヴィレッジ”はそこからわずか50米。 立地条件としてこれ以上の所は無い。

「という話があったんだよ。 清水。明日の朝メシの時そのビル見せるよ。いーぞー。」 清水はフンと笑って応えなかった。

 2人共朝の早い蜷川と清水は、ここロンドンでも朝8時頃落ち合って朝ごはんデートをしているらしい。

 それもこれも、私の野望も、キース・プロウズの倒産と、10本程の情け容赦も無い批評によって今は夢と消えた。

 清水さんは批評について一言も聞かなかった。こちらも敢て話さなかった。

 清水さんが関心があるのは脚本のディテイルについてのイギリスの役者の”表現”や観客の”反応”といった演劇のせまい世界の問題であって、今回の公演の規模や歴史的意味やそんなことには全く興味がなさそうだった。

 劇作家という人種はそういう場合、仕合わせな人たちだ。

 清水さんとはこの翌々年、セゾン劇場(当時)で美空ひばり母娘に想を得た「ひばり」(仮題)を書き下し上演することになったが、初日10日前に執筆放棄されて(この連絡も蜷川経由だった)、以来会っていない。

#演劇 #プロデューサー #清水邦夫 #雨の夏三十人のジュリエットが還ってきた

 

大野一雄 神格化された天才芸術家の見えない素顔

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(23)ー(悲劇喜劇2021年7月)

 舞踏家大野一雄が希代の芸術家であることは、その実績からも世界各国での評価を見ても、論を俟たないことであろう。本稿を書くに当っても、演劇人ではないではないかという声もあろうかと思うが、そのような見方に対しては、大野一雄をする評する澁澤龍彦の言葉 「空虚の中を泳ぎまわる悲劇役者」という一言を紹介するだけで充分だろう。

 またその盟友であり、共に「舞踏」という芸術の創始者である土方巽が喝破した至言、

「舞踏とは、命がけで突っ立っている死体だ。」

に言及するだけで大野一雄の舞踏に関する舌足らずの説明など必要としないだろう。


 私は大野さんとは、1980年に大野さんが始めての海外公演として、フランス・ナンシーの演劇祭に参加した時の渡航の飛行機の手配を手伝った時から係わりを持った。

 私はこの時一緒にナンシーには行けなかったが、このナンシーでの舞路は、特にサン・フィアック教会の内部で、いわばキリストの前で、後の大野さんの言葉によれば、“ユダとして”心ゆくまで踊るという異常な体験をすることによって、大野さんの人生の中で劃期的なものとなったと聞いている。(御殿、空を飛ぶ。」一九八九年思潮社)

 キリストの前で踊るのは良いとして、“ユダとして“在ると想いながら涙を流して1時間も踊るというのは、一体どんな深い悔恨が大野さんにはあったのだろう。

 ちなみに大野さんは早く1930年にバプテスト派のクリスチャンとして洗礼を受けた信者であり、又日中戦争中は陸軍少尉のち中尉として5年間戦場にあり、第二次大戦末期は2年間ニューギニアに大尉として転戦した、師団司令部主任情報将校であった。舞踏家大野一雄とクリスチャン大野一雄との落差は大きいが、私が見てった写真の情報将校の中尉の軍服姿で軍刀を手にした大野さんとの差は甚だしく大きい。 大野さんはクリスチャン・情報将校・舞踏家のそれぞれの矛盾をどう埋めたのだろうか、埋められなかったのだろうか。

 舞踏の成果としての大野さんの公演のかずかずは完全にそれ等を埋め、止揚して、更に高みに至っているかに見える。


 1985年イタリア・リミニでの野外公演では、私は大野さんに完全に圧倒され、私の魂は一瞬天外に飛んだ。 仮設された野外劇場はリミニ郊外の丘の上の僧院の庭にあり、間近アドリア海を望んで、舞台の下手の脇には小さな小屋程の大きさの古風な中世の礼拝堂を配し、仮設舞台の真中にはもともとそこに生えていた1本の木を生かして舞台に小さく穴を開けを生やしてあり、木には丁度季節の紫色の花がいくつか咲いているという、理想的なシチュエーションであった。僧院の上に空は高く晴れ、海風はやさしく吹いて夕刻のイタリアの海辺の街に近い丘の上からの景色はこの上なく美しかった。

 大野さんの舞踏「睡蓮」は始まった。微風のなかそれは典雅であった。満員の客席は静まりかえり、大野さんが舞台中央の名も知らぬ木に咲く紫の花とたわむれている、“お遊び”の時間を一緒に心から楽しんでいるようだった。

 とその時、静謐な舞踏の時を切り裂くように、丘の麓の方から轟音が攻め上って来た。

 近くのイタリア空軍基地からスクランブル発進をしたらしい2機のジェット戦闘機が超低空で頭の上をかすめたのだ。すさまじい爆音と、ジェット機2機の禍々しい噴気の火花は、文明の暴力そのもののように、優雅この上なかった舞踏の場を襲った。観客全員と吾々スタッフは呆然とジェット機を見上げながら、大野さんを目で追っていた。

 すると大野さんは紫の花のかたわらで踊りながら立ちつくし、ジェット機をやわらかに、あくまで優雅に、ふと微笑みながら、見上げるともなく目をやった。その時大野さんの存在はとてつもなく巨きく、ジェット機は矮小なつまらぬ玩具のようだった。

 それは決定的瞬間だった。 ざわめきかけていた観客はすっと息をのむようにして全静まり、ジェットの噪音が虚空の中に吸い込まれて行くのを聞きながら、大野さんの屹立を目のあたりにしていた。

「実存は本質に先立つ。」私はサルトルのこの言葉の見本を見せられたように感動し、「舞踏は立ちつくすことであり胎児の始めの叫びである」という大野さんの言葉どおり、その場に釘付けになって動けなかった。

 その時私は“舞踏”の何たるかを感得したのだった。

 アドリア海の上に月が出て僧院の中庭はその本来の威信をとり戻し、舞台脇の礼拝堂の中の沢山の蠟燭には灯がともされて、動いているのは大野さんの舞踏と上空で飛ぶ蝙蝠だけだった。

 しかしこの夜の舞蹈はそれで終らなかった。長い拍手と全総立ちのカーテンコールの中、大野さんは突然ふわりと舞台を下り、観客の前を横切って踊りながら傍らの小さな礼拝堂に入って行ってしまった。そして何十本もの燭の火の間を祈るように踊って、祭壇の古風な中世の十字架に近づくと、架けられたキリスト像の釘を打たれて傷ついた足に接したのだ。

 観客は本当にどよめいた。イタリア人たちはショックを受けたのだ。

 大野さんは何事もなかったかのように静かに退場して楽屋に入ってしまったが、観客たちは納まらなかった。

 僧院長の神父を、帰りやらぬ数十人がとりまいて議論が始まった。あれはどういう事だ。キリストに対して敬意を欠くのではないか。パードレ、説明して下さい。

 その場に残った日本人は私だけだった。フランチェスコ派らしい茶色の僧衣をまとった神父は大きなお腹を困った様に両手でさすりながら私に助けを求めた。

 私は仕方なく意を決して私が感じたままを話した。

「皆の衆、先ずシニョール・オーノは篤い信仰で知られたクリスチャンである。」 皆の衆は口々に意外だという意味のオーという声を発した。

「そして皆さん、さっきのこの礼拝堂での彼の振る舞いは、彼の舞踏によるコンフェッシオーネ(懺悔・告解)であると私は思う。」

 神父さんは大きく両腕を拡げて賛意を表し、その場に居た百人に近い人々は納得した様にうなづいたり或いは十字を切ったりしながら思い思いに帰路について行った。


 私のこの勝手な解説が正解だったのかどうか、大野さんには聞かずじまいだったので、本当には分らない。

 しかし、十字架の前で懺悔する程の罪を大野さんは犯したのだろうか。

 私がコンフェッシオーネという言葉をふと口にしてしまったのは、大野さんの軍服姿の写真を目にした為だ。帝国陸軍中尉姿の大野さんは全く非のうち所の無い程の凛凛しい師団司令部主任情報将校であった。しかし5年に及ぶ中国戦線現場について大野さんがその自伝的大著 「御殿、空を飛ぶ。」の中の履歴で述べているのは、わずか5行である。90歳の時の北海道新聞のインタビューでも中国での話は数行、驢馬が食料ごと崖から落ちたというような牧歌的なエピソードのみ語られていて、他にはさらりと。“現地の人を使って情報を集める”と述べるのみである。5年の戦場経験についてこれだけかと思うのは私だけであろうか。大野さんは語りたくない戦争体験を持っているのではないだろうか。

 勿論これは私の臆測である。

しかし「御殿、空を飛ぶ。」の中には異常に鋭くこの間の大野さんの内面を描いている人もいる。芦田之氏の一文"大野一雄試論“ Ⅲー供儀と遊戯ーである。

 芦田氏は中国戦線での大野さんについては一言も触れていないが、次の様に述べている個所がある。いずれも私にとって腑に落ちる又はかねがねそう思っていたことなので抜き書きさせて頂く。


「大野一雄が心の奥に蔵ってゐる悲しみの大きな塊り。 悔恨。救ひを求めて止まぬ激しい叫び、願ひ。……

 大野一雄が安易な救済をみづからに許さない厳しさを持ってゐるのは、安易に救はれてはならない恐ろしいなにかを、みづからのうちにはっきりと見据えつづけてきたからだ。……」

「大野一雄は初めて會ふ人に対しても、ほんたうに倒れり壺くせりの気配り方をする人である。……誰に對するしてもさうなのである。痛々しいまでに気を配り、下にも置かぬその愛想のよさは、よく考えてみると、どこかおかしい......大野は必死で演技をしてゐるのではないか。自分が「ひどい奴だ」といふことを痛いほどに分かってゐるので、決して人に気を許さず……」

 まことに私は自分の大野さんとの経験からしても腑に落ちた。 過剰な愛想のよさの裏がえしは即ち”うしろめたさ”である。

......「自らを厳しく断罪し、人に見せてはならない恐ろしいなにかを抱えて生きてきた大野にとって……」

 それこそがリミニの礼拝堂で”舞踏〟の最期に、大野さんにあのような行動をとらせる恐ろしいなにかなのではないだろうか。

 これ等の断片は私が恣意的に抜き出した臆測の集積に過ぎないかも知れない。しかし私には、自伝的大著「御殿、空を飛ぶ」の323頁に及ぶ大野さん自身や他の人々の記述の中で、駐屯地でのほほえましいエピソードのようなものを除き、中国での戦争について、あまりにも無言であることが、どうしても気になるのである。


 1988年ニューヨークのアジアンソサエティでの「睡蓮」の公演を私は少々手伝った。公演は上手く行き、終演後達成感と共に楽屋で着替え始めた大野さんを囲み、 我々は無言でその日の成果を祝い合っていた。大野さんの楽屋は、舞台事務所の前をまっすぐ通る長い廊下の突き当たりにあった。その端の楽屋口から一人の女性が入ってきてこちらに向って来るのが見えた。遠目にも判るピナ・バウシュだった。「大野さんピナ・バウシュが来たようですよ。」 大野さんは衣裳を脱いだ下着のまま、まだメーキャップはおとさずの格好で廊下に出て、大きく腕を拡げ、たちまち舞踏になってピナを迎えて廊下をすすみ始めた。ピナも応じて彼女のスタイルの踊りでゆっくりと近づき始めた。二人はそれぞれ踊りながら廊下の真中で出会い、ひしと抱き合った。貴重な美しい数分だった。大野さんは胸の中にピナの頭をかき抱いて撫でまわしいとおしんだ。

 大野一雄とピナ・バウシュが演じた数分間の舞踏の一シーンに私は賛嘆して立会った。観客は私と大野慶人の二人だけだったが、踊り手二人は愛に満ち、深く強く人間を肯定するように私には思えた。


 この頃大野さんは“老子”に傾倒するようになり、老子から多くの示唆を得て、”宇宙の分霊”という考えにたどりついたと云っている。(1997年北海道新聞、90歳のインタビュー)

 舞踏についても、この考え抜きでは成立しない、とまで云っている。キリスト教との整合性についてはよく判らない。どなたかの智見を賜わりたい。鍵は老子の宇宙論と、人間の誕生の、生命が成立する瞬間、母の胎内で起きることとの関係にあるのではないかと思う。


 大野さんは90歳を過ぎるまで観客の前で踊っていたという驚くべきんだが、長命を全うして、103歳まで生きた。100歳の時長寿を祝って横浜の劇場でお祝いのイベントが開かれたが、大野さんは子息慶人の押す車椅子に乗り、タキシードの正装で舞台に出た、車椅子で舞台をグルグル廻るとあちこちの観客が叫ぶ、「オーノ」「大野ー」のかけ声に応えて、声のした方に微笑み、手を挙げて挨拶するかのように軽く動いた。舞踏になっていた。それは大野さんが語る、瀕死の床の土方巽の手だけの舞踏にそっくりだった。

 そして大野さんのこの最後の舞は、諸人に対する惜しみない愛と、この世界と人間そのものへの絶対的肯定で揺るがぬものであった。

#演劇 #プロデューサー #大野一雄 #舞踏

ヴィクトール・ガルシア 私を演出した天才演出家

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(22)ー(悲劇喜劇2021年5月)

 ヴィクトール・ガルシアと始めて会って話したのは、パリ国際演劇大学(Universite du Theatre des Nations)のサラ・ベルナール座の稽古場の教室でだった。

「あんた日本人だろ。俺ヴィクトール・ガルシア、アルゼンチンのトゥクマンの出身だ。一寸話がある。」

「何だい。トゥクマンでアルゼンチンの奥地の町だろ、知ってる。アタウアルパ・ユパンキの街だ。」

「お前ユパンキを知ってるのか。話せる奴だな。いや話って、芝居に出て欲しいんだ。下へ行こう。」

 2人で下へ下り、楽屋口の横のサラ・ベルナール座一階の角のカフェに座った。話は今度ヴィクトールが一座を組んで上演する、アルフレッド・ジャリの『ユビュ王』に出演してくれということだった。役は小さい役だが、”コティス”という名前もあり、セリフも少しだがあるという。その上配役表に私の名も載り、ポスターも刷って、それにも私の名は載るという。劇場はモンパルナスの一流の劇場レカミエ座。

 ヴィクトールの名は、この大学の天才的な先輩としても、又既に彼がバリで上演したガルシア・ロルカの『イェルマ』や、ジャン・ジュネの『女中たち』、カルデロンやアラバルなどの評判で承知していたし、私としてもパリで役者として出演するのは五本目にもなるし、このトゥクマン出身の貧相な男のただならぬ豹のような目付と、全身がかもし出す何とも云えない淋しげな詩情のようなものに、一目で惚れ込んで、一も二も無く出演を引き受けた。


 コンパニー・ヴィクトール・ガルシアは完璧な国際旅団だった。劇中私と一緒に行動する “ジロン"は、アルゼンチン出身で後に大演出家になるジェローム・サヴァリーの奥さんの、小女のイルシア、ピール”は北イタリア、アルプス地方出身の超小女のヴェロニカ、私が芝居でからむ”ルールス”(熊)をやる男は、オランダとインドネシアの混血の190cmの大男のリュック、あとはイギリス、ドイツ、イスラエルなどなど国籍は十カ国に及ぶ一座になった。私はその中でトルコ人のメメットを入れなければ只一人のアジア人。でもイルシアは先住民の血が入っているらしい顔立ちと体型で、身長は155cm位だろう。中でも見かけ上異様なのは主役のユビュおやじのドゥタ・セックで、セネガル人だ。この男はこの公演の目玉で、アフリカ人といっても様々な黒のグラデーションのある中で、漆黒の肌を持ち、雷鳴の様に轟く声が観客を圧倒するので名のある、セネガルの国民的俳優、パリでも売れた役者である。

 ここに及んでヴィクトールの意図は判った。舞台上に「グロテスク」な景色が欲しいのである。例えばイルシア、ヴェロニカと同じく160cmの小男である私は、身長190cmのリュックが斜めに立って構える右足の先から肩までチョコチョコチョコっと駆け登って右肩にチョコンと座る。 ヴェロニカは左肩に同じ様に駆け登る。イルシアはもう登れないと周りをグルグル回って泣く。という風に私たちは完全に風景だ。

 そもそもこの戯曲はジャリが15歳の時、嫌いな高校の教師をからかう為に、卑劣で尊大な”ユビュおやじ像”を創造し、卑劣なアルジョワを痛烈に批判することになった“人形劇"として上演したもの。19世紀の終りの前衛劇だ。 だったらヴィクトールの仕掛けやたくらみは全てが判る。

 それなら衣裳はどうなってるか。「お前の衣裳出来てるよ。」と衣裳も担当し、自分の家を衣裳小道具の製作アトリエに提供しているジェローム・サヴァリーに、ホイと手渡された時驚いた。ひとつかみの生ゴムのかたまりだ。開いてみると、五角形星形の直径50cm位の2枚の生ゴムを張り合わせてくっつけたもので、頭の所だけ穴が開いて、そこを無理矢理開いて中に全身をこじ入れると、星形の角々に手足の先が収まり、首だけ外に出る様になっていて、手足を伸ばせば生ゴムは伸びて、全体に星形になる。「何だこりゃあ(ケスクセクサ)」と、ジェロームにゴムの中から抗議すると、イヒヒヒと笑って、「ヴィクトールの天才的イメージ力さ。」とうそぶいた。

 天才的イメージについて更に云えば、ユビュおやじの衣裳は、何と数百匹の青蛙の生皮を開いで巨大なガウンに全面的に貼り付けたもの。これをまとったセネガル人は正に異様で、黒い漆が輝く様なドゥタ・セックの肌と、ヌメッと光る緑色の肌の色は似合うと云えば絶妙に似合った。

 稽古場はヴィクトールのスペイン語なまりのフランス語の鋭い指示と、それに応える役者達の各国語なまりのフランス語のセリフ、たまえ殊にはドゥタ・セックのアフリカなまりのフランス語が行き交って大混乱。その中で演出助手のドミニックと、”ヴァンセスラス王lでキャストに名を連ねているジェローム・サヴァリーの二人だけが真当なフランス人(ジェロームはアルゼンチン出身だが)のフランス語なので、みんなセリフはこの二人に教えを乞うてしのいだ。

 芝居はこんな風に始まった。牛の頭から尻尾までの完全な白骨のまわりに全員が集まって、ムシャムシャ、ペロペロ、ゲップ、ゲロを吐く音、様々な眼の雑音を盛大に立てている。それを上からサスペンション・ライト一本がアンバーで徐々に照らし出す。と、その中の一人、蛙の衣をまとったセネガル人のドゥタ・セックがゆっくり立ち上って、一言、雷のような声で大声を発する。

「メールドー」(ウンコ、糞)

この一声から、卑語俗語洪水のようなユビュおやじのセリフが雷鳴のように続き、芝居はめくるめくようなテンポで廻りだす。はずだった。

 一点、ヴィクトールの計算外だったのは、ドゥタの怠惰だった。アフリカ人特有の怠惰で、セリフを覚えなかった。重要を長ゼリフを途中で忘れるのは勿論、次のシーンのキッカケのセリフも忘れてみんなを困らせた。

 とに角初日は開いた。批評は散々だった。 ヴィクトールの演出こそ、そこそこ好評だったが役者たち全員のなまりのせいで、ジャリの文体は三割しか客に届かない。ユビュおやじがかくもアフリカのローカリティを持っているのを、ジャリ自身は決して許さないだろう。等々々。ヴィクトールは歯ぎしりし、爪を噛み、でも決して役者たちを責めなかった。

「なまりは計算済だ。全ては俺の責任だ。まあ見てろ。今に分かる。今に“ガルシア”と云えばガルシア・ロルカじゃなく、ヴィクトール・ガルシアのことだという時代が必ず来る。」

 その後すぐヴィクトールはドゥダ・セックをクビにした。ディジョンへの旅公演2日の稽古の時、ドゥタが平然と稽古に1時間以上も遅刻して来てヴィクトールは遂に爆発した。

「こんなにみんなを待たして何だと思ってる。お前の為の稽古じゃないか!サロー!コション!」

 ドゥタは追放され、ディジョンの公演はヴィクトールがユビュおやじをセリフ無しで演じ、セリフはマイクを使ってジェローム・サヴァリーが台本を読むという、いわば日本の文楽方式でやって、芝居は全体流れる様に進行し、公演は観客に大受けした。

『ユビュ王』のギャラとして、終った時私は制作を兼ねているドミニックから百フラン(当時7,300円)受け取った。ギャラを貰えるとは夢にも思っていなかったので、大金に私は驚喜した。


 一時的にではあれ、パリではヴィクトール時代があった。1979年、パリ、シャイヨーの国立民衆劇場で、ヴィクトールが構成演出した、モロッコの伝説を題材にした大作『ギル・ガメッシュ』の破格の大成功がそれを可能にした。この成功は、丁度その頃東京帝劇で蜷川幸雄演出の『近松心中物語』を上演していた私の耳にも聞こえてきた。私はヴィクトールの成功を心から喜んだ。すぐにもパリに飛んで“マール”(葡萄酒のしぼりかすを原料にした蒸留酒)で乾杯し、『ギル・ガメッシュ』を見て、私の『近松心中物語』のプロデューサーとしての成功も聞いて欲しかった。

 でも彼の成功は長続きしなかった。彼が47歳で唐突に死んだからだ。

 明らかに“マール”の呑み過ぎだった。食事もロクにせず、毎日“マール”を呑んでいた。怒るにつけ、喜ぶにつけ、ウォッカよりも強そうなこの酒をたて続けに6杯も7杯も呷っていた。それは同じように成功を切望しながら“アプサン"を呷って自滅して行った19世紀の若い画家たちの姿を見るようだった。

 47歳は早過ぎる。成功の絶頂と共に死んで行ったヴィクトールを想うと、やりきれない。

 もう10年長生きしていたら、71年にアラバルの『建築家とアッシリアの皇帝』でロンドンで成功したようにニューヨークを征服し、ピーター・ブルックのような世界的演出家になっていたことは疑いない。

 『ギル・ガメッシュ』の上演時、ヴィクトールとブルックは二人で飲み交しながら、

「一番偉大なのは君だ、ヴィクトール!」

「いや一番偉大なのはあんただ、ピーター!」

と、明け方まで互いに繰り返していたと、これは『ギル・ガメッシュ』のプロデューサー、旧知のアンドレ・ルイ・ペリネッティから後に聞いた。


 ヴィクトールには私的に借りが出来た。それは私の人生の将来の進路についてである。

 彼の演劇についての信念である“ユニヴァーサリズム”には、私は自身すでに思う所あってのことで、深く影響を受けた。がその頃私は未だ演劇に於て自分が何の役割を果せるのか、パリに居残って役者をやるか、日本に帰ってオペラ又は演劇の演出家になるか、或はプロデューサーを職とするか、全く迷っていた。

 菊田一夫は、パリ滞在中名物の焼栗をぼりぼりとかじりながら、早く帰って来て、東宝演劇部でプロデューサーをやりなさい、と云ってくれたし、東和映画社長の川喜多長政氏は、自分の時代は特に戦前日本人の民度がどうしようもなく低かったから、それを上げ日本人の頭をやわらかくする為にああいうヨーロッパの映画を日本に入れる仕事をした。しかし君の時代、これからは、日本の文化を外に出す仕事をし給え。と東宝パリ事務所の絨毯にあぐらをかいてバーボンを傾けながら励ましてくれた。

 そういう時ヴィクトールと二人で長く話す機会があった。

 『ユビュ王』が終って少し経ったある日の夕刻、私は住家のすぐ後ろのサンタンドレ・デ・ザール街を歩いてサンジェルマン大通りのダントンの角に出た所でヴィクトールにばった出会った。憂鬱そうだったが、日はいつものジャガーの目だった。

「サリュタダオ。俺にマールを1杯おごる金あるかい。」

「サリュヴィクトール、3杯か4杯おごれるよ。」

「行こう。」

二人で大通りを渡り、向い側、ダントンの彫像の脇の”カフェ・ダントン”に入った。

『ユビュ王』にまつわる四方山話の後、私は突然四歳上の兄貴のようなヴィクトールに聞いてみる気になった。

「ヴィクトール、俺芝居の世界で生きることになると思うんだけど、何やったらいいだろう。」

ヴィクトールは3杯目のマールを呻りながら、ジャガーの目で私の目をじっと見つめた。

「タダオ、お前者は向いてない。パリでその身体でアジア人でといや一定の役所はあるだろう。でもそれは召使の役と端役だ。大きな役は永遠に来ない。それにお前、頭がいつも冷めてる。お前は心で芝居するより頭で論理でやる方だ。役者は向いてない。演出家になっても同じ事だ。演出家は論理も必要だが情熱はもっと必要だ。 お前には情緒的カリスマが無い。役者は付いて来ない。

 タダオ、お前はプロデューサーになれ。プロデューサーがぴったりだ。芸術的感性があって頭がクールなお前こそ俺達が待っているプロデューサーなんだ。 ……」

 ヴィクトールのスペイン語なまりの雄弁は滔滔と続いた。ヴィクトールは意外と三島由紀夫に詳しく『近代能楽集』をいつか演出したいと言った。私は心から私の手でそれを上演したいと思った。

 私が遂に懐具合が心配になってマールをストップする迄、私の運命を決めた話合いは続いた。ヴィクトールは珍しく大いに笑い、私はパリでの青春の彷徨が終り仕事を始める時が来たと感じた。そして東宝でプロデューサーになることに腹を決めた。

 菊田一夫、川喜多長政両巨人は確かに私の行く手を指し示した。 そこで私の背中をドンと押したのはヴィクトール・ガルシアだ。

 帰りがけ酔ったヴィクトールの腕を取って渡るサンジェルマン大通りは、いつもと違う景色に見えた。そして二人でユパンキのルナ・トゥクマーナ(トゥクマンの月)を口ずさみながらサンタンドレ・デ・ザール街の路地へ入って行った。

#演劇 #プロデューサー #ヴィクトールガルシア #ユビュ王

浅香光代 敵も猿もの引っ掻くもの

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(21)ー(悲劇喜劇2021年3月)

 浅香光代さんが亡くなった。浅香さんは竹を割ったような気性の人だと聞いていた。その通りだった。

 付合いは「にぎにぎ」という劇から始まった。喜劇畑の若手プロデューサーとして歩み始めていた私は、その頃、大劇場では未だ無名の井上ひさしを起用したり、三木のり平を中心に喜劇人を糾合したり、東京の喜劇を再興しようという意図で盛んに喜劇をやっていた。

 この「にぎにぎ」も、丁度新聞を賑わせていた茨城県下の選挙違反の話が、カツオを配って廻って問題となったはいいが、それが告発されて警察に保管されたものが、みな腐ってしまい、その腐ったカツオは証拠として成立するかどうかとか、あまりに田舎の選挙らしく可笑しいので触発され、企画した一本である。 なので配役もいつもの東宝喜劇とは一寸異り、田舎の選挙違反騒動の中心人物に植木等、悪徳田舎政治家に金子信雄、全てを心得たその女房に浅香光代 その他藤岡琢也、園佳也子など、手だれの演技派を集めた、スラップスティックスでない喜劇を目指した。

 当時喜劇作家としてはいささか不調だった小幡治に提案したが、小幡さんは面白がって書いてもいいと意欲を示し、一緒に茨城県下に取材旅行に出かけた。選挙違反の買取に必要な“ブツ”はカツオでなく、その頃プームだった銘石、石の方が重くて笑えるということで石にした。

 なる程取材旅行では茨城方面でも石屋が目立ち、何軒か発び込みで取材したが、一軒の石屋が完全にヤクザ屋さんの経営らしく、出て来たヤクザの若い衆に思い切り怪しまれて、怖い思いをし、危くこちらが喜劇の主人公になる所だった。しかしこの企画の喜劇的要素にヤクザ屋さんがからむのは大いに結構で、これは企画の成立にタメになる経験だった。

 即ち田舎政治家のドンに金子信雄、ヤクザもアゴで使う男まさりのその妻に女剣劇の浅香光代、というのがその旅の間に浮かんだ案で、旅の間に小幡政治に提案、一発で賛同を得た配役である。

 浅香さんは14歳で一座を旗揚げして座になって以来、浅草を本拠に女剣劇で一世を風靡した人で、私も小さい頃から一家で浅草へよく行ったので、浅香光代の名は浅草の原風景のようによく覚えていた。

「にぎにぎ」は”役人の子はにぎにぎよく覚え〟から発想して私が考えた奇妙な題名だが、題名だけで無く宝塚劇場という東宝を代表する

大劇場で、クレージー・キャッツの植木等を主演にして、東宝系大劇場初出演の浅香光代まで、東宝喜劇としては変った顔ぶれの芝居をやるということで期待感が高まり、前売の売れ行きも何時になく好調だった。

 この「にぎにぎ」の頃は女剣劇の人気がすっかり退潮して、浅香と双璧を成した大江美智子共々、女剣劇からは身を引いていた時期だった。だからというのではないが、この75年の前年、74年5月に蜷川幸雄と日生劇場でシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を上演しこの年の5月にも「リア王」をやって、プロデューサーとして意気盛んであった私が、女剣劇という芝居を少し甘く見ていたのは否めない。

 その所為もあって、ポスターが出来上った所で浅香さんの逆鱗に触れた。

 私は役者たちの並び位置、所謂カンバンの浅香さんの位置を、東宝初出演ということもあって、主演の植木等から5、6番目の位置、ベテラン脇役の立原博の並びにしたのだ。これがいけなかった。カンバンは商業演劇の役者にとって命だということに、若輩の私は未だ全く鈍感であった。私が行っていたパリの演劇界では、配役表は殆どの場合アルファベット順、ということもあって、この時私は”カンバン”を実に気軽に作ってしまった。

 カンカンに怒った浅香さんは、自分はこれでは到底納得出来ない、兎に角家に来いという。私はそれでも事態の重大さを認識していなかった。 何の剣劇のオバサンの1人や2人説得出来ないことのあるものか、家に来い?行こうじゃないの。浅草吉原ソープランド街の真只中の家に呑気に向かった。その次頭に浮かんだ流行の歌を、頭の中で唱いながら。

“昔さむらいさんは本気んなってちゃんばらした

今じゃ芝居で女がチャンチャンバラバラ

男はたーまらないよ あっさーりで撫で斬りだよ

二丁拳銃もこれじゃ敵わぬ”

「こんちはー、東宝のプロデューサーの中根です。」

「待ってたよ、どうぞそこへお座んなさい。」

テーブルを隔てて向い側の椅子に座る。見ると本当にこれは怒った顔だ。

 こんな場面に未だ全くれていなかった私は、正論で理屈を言えばいいと思っている。曰く、東宝には東宝での実績によるランク付けがあって、今回の皆さんはみんな東宝の舞台によく出ている人ばかりであること。浅香さんは今国東宝初出演で、カンバンのこの位置はそう悪くはないこと。 云々かんぬん。

「でもねえあんた、これはないよ。あたしは14の年から一座を張ってやって来たんだ。これはないよ。」

「しかし他の人達の立場もありますので......」

見ると浅香さんの膝には、いつの間にやら1匹の手長猿が抱かれている。 浅香さんがペットとして何処にでも連れて歩く、分身のような手長猿で、業界では夙に知られている。よく見れば顔色の悪い、人相の良くない猿で、私は一目でこいつとは仲良くなれないなと思った。余談だが私は猿が嫌いだ。 人間に妙に似ているのが気味が悪い。猿の一団が皆が温泉に浸っていたりする映像を見ると、不潔で身震いがする。

「あたしの立場はどうなるのさ。あたしは看板一番上でしきゃ芝居やったことないんだよ。」

「浅香さんの一座ではそうでしょう。でも今度は植木さんの一座で、芝居は小幡先生の書き下ろしです。

「でもねえ、あたしだって顔ってものがあるんだよ。 立原さんとならびなんて、これはしどいよっ。」

 ドスの効いた胴間声が高くなると共に猿が嫌な目でこっちを睨めた。

「そうは云っても立原さんは実績のある役者です。 浅香さんが並んでおかしいってこたあありません。」

「あんたこりゃどいよっ!」

 大きな声と一緒にテーブルをドンと叩いた。

 浅香さんがテーブルを叩くと、膝の上の手長猿の長い腕が、ケエーという様な変な声と一緒に、私の顔を狙ってニューと伸びて来た。私だって中学時代、3年間講道館に通って柔道に精を出し、講道館少年部にその人ありと知られた身、反射神経には自信がある。ひらりと右に体をそらす躱したが、畜生の腕の速さにいささか遅れをとって、猿の手は私の左肩か背広の胸にかけてボリッと引っ掻き、左の胸ポケットの端をほちけさせた。

 顔をやられなくてよかった。大学時代女子学生たちを騒がせた私のビボーが、あたら猿如きに台無しにされるとこだった。

 猿は引き続きケーケーと妙な声を出して私を威嚇してる積りらしい。やな畜生だ。猿なら猿らしく、“キャッキャッ“と真当な声を出すがいい。私は猿の二の矢に備え、身を七三に構えて、成田屋伝授の”にらみ”でもってハッタと猿を睨め付けた。えて公、来るなら来てみろ、手前の長い腕を4つにヘシ折って、束ねて首からぶる下げてやらあ。

 となった所で浅香さんが無類に優しい声を出した。

「いいんだよ、何とか(名前は忘れた)ちゃん。よしよし。怒らないの。」顔は吹き出すのを抑えた含み笑い。私は気勢を殺がれて、つい七三の構えを解いてしまったが、解くと同時に思った。

 こいつぁ貫禄負けだ。

 でも“カンバン”の件は、浅香さんも愛猿の狼籍で気が収まったのかうやむやになり、結局私は背広の修理代だけで事が済んだ。

 それでも浅香さんは、なかなか私に口を利かなかったが、「にぎにぎ」が開いてしばらくして、浅香さんがセリフの中の、金子さんに「今私がおいしいコーヒーを淹れたげるから」というのを「・・・おいひいコーシー・・・」としか云えず、それをダメ出しした時に、お互い浅草と下谷黒門町の下町ということで話が打ち溶けて、あとは何事もなかった様にさっぱり付き合ってくれた。

 まことに猿のとり持った縁か、竹を割った様な気性の人であった。ああいう伝法な肌合いの人がもう居なくなってしまったのは淋しい。

#演劇 #プロデューサー #浅香光代 #猿

植木等 スーダラ節と三島由紀夫

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(20)ー(悲劇喜劇2021年1月)

 植木等さんの亡くなった時、2007年だったと思うが、青山斎場での葬儀に私も参列した。クレージー・キャッツでその時残っていた谷啓、犬塚弘、桜井センリの老いた横顔を見ながら、私はひたすら悲しかった。ひたすらひたすら悲しかった。単に仕事の関係者の死に、というより、何か大きな個人的な悲しみに襲われたようだった。それは、自分が生れ、育ち、仕事をした、”昭和”という時代、その雰囲気考え方風情のすべてを丸ごと持ち去られたような、云い様の無い淋しさだった。植木さんはあの有名なきょうしょう洪笑と共に去って行った。跡には凡庸で平板で無機質な、月面の砂の如きつまらない時代が残った。

 葬儀の間中、私は胸の中でスーダラ節”を唱っていた。あの歌こそ私の時代の歌だった。

“……チョイト一杯のつもりで飲んで······これで身体にいいわきゃないよ 分っちゃいるけどやめられねえ ア ホレ スイスイ スーダララッタ……

……馬で金もうけした奴ぁないよ 分かっちゃいるけどやめられねえ ア ホレ スイスイ……俺がそんなにもてる訳ゃないよ 分っちゃいるけどやめられねえ ア ホレ スイスイスーダララッタ スラスラスイスイスイ……

 私はこれをずっと胸の中で繰り返していた。

 植本さんとは個人的に付合いがあったわけでは全くない。ただ1970年前後、五年間続けて暮の12月、東京宝塚劇場で、 “クレージーの年忘れ爆笑公演”というのをプロデュサーとして手がけた縁だった。私は当時フランス留学から

帰ったばかりで、なぜか喜劇畑のプロデューサーだったのだ。自分でも大好きな分野で、三木のり平公演やクレージー・キャッツ公演をプロデュースしたのは、個人的に今でも楽く誇りにしている思い出だ。

 その年、1970年も忘れ爆笑公演は目前の12月2日初日にせまって、11月29、30、翌1日と3日ある舞台稽古を前に、稽古場では25日から28日の4日間かけて、クレージーショウ”走れ走れクレージー”と、クレージーキャッツ出演、植木等主演の芝居”ぎんぎんぎらぎら物語“の2本を稽古することになった。

 客演はザ・ピーナッツ、辺見マリ、奥村チヨ、日劇ダンシングチーム、フォー・メイツなど年末にふさわしい賑やかな大一座で、せまい稽古場は人いきれと暖房でムンムンしていた。

 その日11月25日も稽古場は賑やかで陽気だった。ショウの”走れ走れクレージー”の第2景スーダラ節を筆頭に植木のヒット曲をメドレーで歌う。“植木等のナツメロ”の稽古にさしかかった所だった。別の仕事で稽古に遅刻した大塚弘が息せき切って稽古場に飛び込んできた。片手にトランジスター・ラジオを握りしめている。

「大変だよお。 今三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乗り込んで、自衛隊の決起をうながす演説をしてる。今演説してる。」

 温厚でいつもは物静かな犬塚弘の大声に、稽古場は一瞬で静まった。 ラジオの音だけが響いた。

 ラジオからはヘリコプターのバタバタいう音や、野次と覚しき大勢の声の間に、切れ切れに三島由紀夫らしき甲高い声がしてくる。そういえば先刻から、稽古場の外でヘリコプターの音がうるさく聞えて、何だろうと思っていた。グレージーの7人は小さなトランジスター・ラジオをまるくとりかこんで座って聞いた。植木さんは独りラジオに覆いかぶさる様に両手を広げて床に付いて耳を近付け、真剣な顔で三島の演説を聞いていた。演説は途切れ途切れに野次やヘリコプターにかき消されていたが、それでも概ね聞えた。

「……日本は経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って……しかるに我々は自衛隊というものに心から……静聴せよ。静聴、静聴せい。……それは日本の根本が歪んでいるんだ。それを誰も気が付かないんだ。その日本の歪みを正すのが……静聴せい、静聴い。……静聴せいと言ったら分らんのか。……おまえら聞けえ、聞けえ!静かにせい!!話を聞けっ!男一匹が命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか、いいか。…………

 諸君の中に1人でも俺といっしょに起つ奴はないのか。1人もいないんだな。

 それでも武士かあ!それでも武士かあ!

 天皇陛下万歳!!天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!」

 三島の演説は悲惨だった。殆どを自衛隊員に野次り倒され、ヘリコプターの音にかき消され” 男一匹命をかけて訴えている”演説は単純に物理的に誰にも伝わらなかった。むしろメディアを通じての方が受け止められて衝撃は後になる程広がった。

 稽古場でほぼ全部を開いたクレージー・キャッツの7人いや6人は、終ると肩の力を抜き、互に顔を見合わせて何も言葉が出なかった。植木さんは同じ姿勢のままラジオに覆いかぶさって動かなかった。

 やがて中継アナウンサーが、三島は自決、それも切腹したようだと伝えた。

 植木さんはゆっくりと立ち上った。そして落ち着いた静かな声でクレージーのみんなに云った。真剣な顔だった。

「おい、俺達こんなことしてていいのかよ。」谷啓は何か云いたそうにしたが、いつに無く真面目な顔をして、目をパチパチさせただけだった。 ハナ肇がしたり顔をして一座をとりなす様に云った。

「俺達は稽古しようよ、な。」

 植木さんは横を向いて返事をしなかった。

 その日は30分の休憩の後芝居の方の稽古、“ぎんぎんぎらぎら物語”の稽古になり、植木さんはその日、そして稽古の間ずっと、舞台稽古になってもスーダラ節を歌わなかった。実際一日の通し舞台稽古は本番通りに行うもの、それでも植木さんは他のヒット曲は歌ったが、スーダラ節だけは歌わなかった。 メンバーの間には気まずい心配そうな空気が満ち、スタッフはこのクレージー・キャッツと植木等の極め付きのヒット曲無しでのメドレーに、観客がどういう反応を示すか、それが心配だった。

 でも誰も植木さんに無理強いは出来なかった。もともと、スーダラ節という歌には植木さんが強い拒否反応を持ち、 歌うことに悩み抜いたこと、革新派の僧侶であった父親に相談してその前で歌ってみせ、親鸞の教えに通ずると父上が強く勧めたことで歌う決心をした、というエピソードは、内々の皆が知っていたことであった。その時植木さんの様子は、誰も傍に寄り難い程、真剣で深刻だったのだ。

 その間27日と28日は宝塚劇場で、劇場を借り切って、毎年恒例の催しである「文士劇」という奇怪なイベントが行われていた。有名な作家物書き達が集まって出演し本格的な芝居を上演するというものだ。三島由紀夫はこの10年位前は毎年出演して歌舞伎芝居の端役を嬉々として演じていたりした。

 27日の夜私は所用で劇場に行き舞台の裏を通りかかった。 すると丁度出番なのか、作家の今東光和尚が扮装のまま通る所だった。和尚は暗い舞台裏を足を踏みしめつつ何かブツブツ言っている。

「全くこんな時に、俺達こんなことしてていいのかよ。」

 植木さんと同じ言葉だ。しかし和尚は作家だ。仏者でもある。それに文士の士は、さむらいでもある。「文士劇」など下りればいいじゃないか。植木さんの心の葛藤は、和尚とは比べものにならないくらい大変なものであることが察せられた。

 29日からの舞台稽古になって、植木さんはちゃんと劇場に来た。但、衣裳のまま、舞台事務所の古いソファーに腰を沈めて新聞を読んでいる。

 植木さんのすぐ横のガラス扉には大きな放射状のひびが入っているが、それは昔、菊田一夫と泰豊吉がここで大喧嘩をした時、ドイツ語で罵声を怒鳴り散らす泰に菊田が投げ付けた鉄の灰が当ったもの。

 幕内支配人の森元さんはキチンとした人で、三島事件の記事を25日の夕刊から折りたたんで重ね、出番を待つ役者達の為にソファーの前のテーブルに置いていた。

 植木さんが大きく広げて食い入るように見ているのは、朝日新聞の当日25日の夕刊だった。そこには衝撃的なあの写真が載っていた。三島の切り落とされた頭部が床に置かれている写真だった。それは黒いシルエットながら判然と三島と判る写真だった。

 植木さんはその写真をいつまでもいつまでも見ていた。誰も近寄ったり話しかけて軽口をたたいたり出来る雰囲気ではなかった。

 谷啓だけがわずかに微笑みながら何か語りかけたそうにそばに寄った。結局何も云わずに隣に座って例の如く目をパチパチさせながら一緒に長い間写真を見ていた。それが、谷啓の精一杯の友情らしかった。この舞台稽古で植木さんはどうしてもスーダラ節を歌わなかった。歌えなかったのだろう。こだわりは強いようだった。

 2日の初日が来た。第1景”走れ走れクレージー"というのは大がかりな開幕ショウだった。 クレージーの7人に日劇ダンシングチーム、ザ・シャンパーズ、フォー・メイツ、ブルーソックス・オーケストラなど60人を超えるダンサー歌手音楽隊が舞台を埋め、華やかに年末の浮き立つ気分を盛り立てた。

 そして第2景、植木等のナツメロにいきなり舞台はクレージーと植木さんだけに集中し、植木等ヒット曲のメドレーが始まる。

 私は急いでロビーへ走り、客席7番に入って満員のお客さん達の後に立った。

 第2景の音が入って舞台は暗転し、そして植木さん1人が広い宝塚劇場の舞台の真中にスポットライトで浮き出した。全館から大喚声が起きた。そしたら植木さんが客の方を向いて笑った。この1週間で遂に笑った。アッハッハッハッハッーとあの笑だ。満員の客は全員が拍手をも叫んでいる。スーダラ節!スーダラ!という声がそこここから聞こえる。ハナ肇がドラムを叩く。谷啓のトロンボーンかわイントロを入れる。そしてその全員が演奏をし始める。

 植木さんが全館の客に対峙して前に進み出た。 歌うか。 歌うか。

”チョイト一杯のつもりで飲んで……”

 歌った。歌い始めた。

 再び前に増した大喚声。名状し難いとはこういうことを云うのだろう。喚声には喜びと共感と悲鳴のようなものと、すべてが入りまざった、地鳴りのような響きがあった。

 植木さんはこの大衆の声と折合いを付け、自分の中の葛藤にけじめを付けたのだ。

 スーダラ節は素晴らしかった。人々の全ての緊張を解き溶かし、時代を背負っていた。

 私は学習院の先輩三島さんの切腹も、自衛隊も、天皇陛下もみな忘れて、植木さんの歌に身を委ねた。 不思謡に心地良かった。

 三島さんの事は11月25日以来、あらゆる人が意見や感想や主張を述べていたが、私の心に未だに刺さっているのは、先頃亡くなった漫才の内海桂子師匠のシャープなコメントだけだ。

「あんなねえ、私はしませんよ。人様のお子さんを巻き添えにして。あんな若い人を。自分が独りで死ねばいいんです。」

 庶民の視点だ。三島さんの視野に無かったのは、庶民・大衆である。 大衆の支持無くしてなんの決起だろうか。

 時代は植木さんの時代であって、三島さんの時代ではなかった。あの頃はそういう時代だった。

#演劇 #プロデューサー #植木等 #三島由紀夫 #クレイジーキャッツ