中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

植木等 スーダラ節と三島由紀夫

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(20)ー(悲劇喜劇2021年1月)

 植木等さんの亡くなった時、2007年だったと思うが、青山斎場での葬儀に私も参列した。クレージー・キャッツでその時残っていた谷啓、犬塚弘、桜井センリの老いた横顔を見ながら、私はひたすら悲しかった。ひたすらひたすら悲しかった。単に仕事の関係者の死に、というより、何か大きな個人的な悲しみに襲われたようだった。それは、自分が生れ、育ち、仕事をした、”昭和”という時代、その雰囲気考え方風情のすべてを丸ごと持ち去られたような、云い様の無い淋しさだった。植木さんはあの有名なきょうしょう洪笑と共に去って行った。跡には凡庸で平板で無機質な、月面の砂の如きつまらない時代が残った。

 葬儀の間中、私は胸の中でスーダラ節”を唱っていた。あの歌こそ私の時代の歌だった。

“……チョイト一杯のつもりで飲んで······これで身体にいいわきゃないよ 分っちゃいるけどやめられねえ ア ホレ スイスイ スーダララッタ……

……馬で金もうけした奴ぁないよ 分かっちゃいるけどやめられねえ ア ホレ スイスイ……俺がそんなにもてる訳ゃないよ 分っちゃいるけどやめられねえ ア ホレ スイスイスーダララッタ スラスラスイスイスイ……

 私はこれをずっと胸の中で繰り返していた。

 植本さんとは個人的に付合いがあったわけでは全くない。ただ1970年前後、五年間続けて暮の12月、東京宝塚劇場で、 “クレージーの年忘れ爆笑公演”というのをプロデュサーとして手がけた縁だった。私は当時フランス留学から

帰ったばかりで、なぜか喜劇畑のプロデューサーだったのだ。自分でも大好きな分野で、三木のり平公演やクレージー・キャッツ公演をプロデュースしたのは、個人的に今でも楽く誇りにしている思い出だ。

 その年、1970年も忘れ爆笑公演は目前の12月2日初日にせまって、11月29、30、翌1日と3日ある舞台稽古を前に、稽古場では25日から28日の4日間かけて、クレージーショウ”走れ走れクレージー”と、クレージーキャッツ出演、植木等主演の芝居”ぎんぎんぎらぎら物語“の2本を稽古することになった。

 客演はザ・ピーナッツ、辺見マリ、奥村チヨ、日劇ダンシングチーム、フォー・メイツなど年末にふさわしい賑やかな大一座で、せまい稽古場は人いきれと暖房でムンムンしていた。

 その日11月25日も稽古場は賑やかで陽気だった。ショウの”走れ走れクレージー”の第2景スーダラ節を筆頭に植木のヒット曲をメドレーで歌う。“植木等のナツメロ”の稽古にさしかかった所だった。別の仕事で稽古に遅刻した大塚弘が息せき切って稽古場に飛び込んできた。片手にトランジスター・ラジオを握りしめている。

「大変だよお。 今三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乗り込んで、自衛隊の決起をうながす演説をしてる。今演説してる。」

 温厚でいつもは物静かな犬塚弘の大声に、稽古場は一瞬で静まった。 ラジオの音だけが響いた。

 ラジオからはヘリコプターのバタバタいう音や、野次と覚しき大勢の声の間に、切れ切れに三島由紀夫らしき甲高い声がしてくる。そういえば先刻から、稽古場の外でヘリコプターの音がうるさく聞えて、何だろうと思っていた。グレージーの7人は小さなトランジスター・ラジオをまるくとりかこんで座って聞いた。植木さんは独りラジオに覆いかぶさる様に両手を広げて床に付いて耳を近付け、真剣な顔で三島の演説を聞いていた。演説は途切れ途切れに野次やヘリコプターにかき消されていたが、それでも概ね聞えた。

「……日本は経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って……しかるに我々は自衛隊というものに心から……静聴せよ。静聴、静聴せい。……それは日本の根本が歪んでいるんだ。それを誰も気が付かないんだ。その日本の歪みを正すのが……静聴せい、静聴い。……静聴せいと言ったら分らんのか。……おまえら聞けえ、聞けえ!静かにせい!!話を聞けっ!男一匹が命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか、いいか。…………

 諸君の中に1人でも俺といっしょに起つ奴はないのか。1人もいないんだな。

 それでも武士かあ!それでも武士かあ!

 天皇陛下万歳!!天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!」

 三島の演説は悲惨だった。殆どを自衛隊員に野次り倒され、ヘリコプターの音にかき消され” 男一匹命をかけて訴えている”演説は単純に物理的に誰にも伝わらなかった。むしろメディアを通じての方が受け止められて衝撃は後になる程広がった。

 稽古場でほぼ全部を開いたクレージー・キャッツの7人いや6人は、終ると肩の力を抜き、互に顔を見合わせて何も言葉が出なかった。植木さんは同じ姿勢のままラジオに覆いかぶさって動かなかった。

 やがて中継アナウンサーが、三島は自決、それも切腹したようだと伝えた。

 植木さんはゆっくりと立ち上った。そして落ち着いた静かな声でクレージーのみんなに云った。真剣な顔だった。

「おい、俺達こんなことしてていいのかよ。」谷啓は何か云いたそうにしたが、いつに無く真面目な顔をして、目をパチパチさせただけだった。 ハナ肇がしたり顔をして一座をとりなす様に云った。

「俺達は稽古しようよ、な。」

 植木さんは横を向いて返事をしなかった。

 その日は30分の休憩の後芝居の方の稽古、“ぎんぎんぎらぎら物語”の稽古になり、植木さんはその日、そして稽古の間ずっと、舞台稽古になってもスーダラ節を歌わなかった。実際一日の通し舞台稽古は本番通りに行うもの、それでも植木さんは他のヒット曲は歌ったが、スーダラ節だけは歌わなかった。 メンバーの間には気まずい心配そうな空気が満ち、スタッフはこのクレージー・キャッツと植木等の極め付きのヒット曲無しでのメドレーに、観客がどういう反応を示すか、それが心配だった。

 でも誰も植木さんに無理強いは出来なかった。もともと、スーダラ節という歌には植木さんが強い拒否反応を持ち、 歌うことに悩み抜いたこと、革新派の僧侶であった父親に相談してその前で歌ってみせ、親鸞の教えに通ずると父上が強く勧めたことで歌う決心をした、というエピソードは、内々の皆が知っていたことであった。その時植木さんの様子は、誰も傍に寄り難い程、真剣で深刻だったのだ。

 その間27日と28日は宝塚劇場で、劇場を借り切って、毎年恒例の催しである「文士劇」という奇怪なイベントが行われていた。有名な作家物書き達が集まって出演し本格的な芝居を上演するというものだ。三島由紀夫はこの10年位前は毎年出演して歌舞伎芝居の端役を嬉々として演じていたりした。

 27日の夜私は所用で劇場に行き舞台の裏を通りかかった。 すると丁度出番なのか、作家の今東光和尚が扮装のまま通る所だった。和尚は暗い舞台裏を足を踏みしめつつ何かブツブツ言っている。

「全くこんな時に、俺達こんなことしてていいのかよ。」

 植木さんと同じ言葉だ。しかし和尚は作家だ。仏者でもある。それに文士の士は、さむらいでもある。「文士劇」など下りればいいじゃないか。植木さんの心の葛藤は、和尚とは比べものにならないくらい大変なものであることが察せられた。

 29日からの舞台稽古になって、植木さんはちゃんと劇場に来た。但、衣裳のまま、舞台事務所の古いソファーに腰を沈めて新聞を読んでいる。

 植木さんのすぐ横のガラス扉には大きな放射状のひびが入っているが、それは昔、菊田一夫と泰豊吉がここで大喧嘩をした時、ドイツ語で罵声を怒鳴り散らす泰に菊田が投げ付けた鉄の灰が当ったもの。

 幕内支配人の森元さんはキチンとした人で、三島事件の記事を25日の夕刊から折りたたんで重ね、出番を待つ役者達の為にソファーの前のテーブルに置いていた。

 植木さんが大きく広げて食い入るように見ているのは、朝日新聞の当日25日の夕刊だった。そこには衝撃的なあの写真が載っていた。三島の切り落とされた頭部が床に置かれている写真だった。それは黒いシルエットながら判然と三島と判る写真だった。

 植木さんはその写真をいつまでもいつまでも見ていた。誰も近寄ったり話しかけて軽口をたたいたり出来る雰囲気ではなかった。

 谷啓だけがわずかに微笑みながら何か語りかけたそうにそばに寄った。結局何も云わずに隣に座って例の如く目をパチパチさせながら一緒に長い間写真を見ていた。それが、谷啓の精一杯の友情らしかった。この舞台稽古で植木さんはどうしてもスーダラ節を歌わなかった。歌えなかったのだろう。こだわりは強いようだった。

 2日の初日が来た。第1景”走れ走れクレージー"というのは大がかりな開幕ショウだった。 クレージーの7人に日劇ダンシングチーム、ザ・シャンパーズ、フォー・メイツ、ブルーソックス・オーケストラなど60人を超えるダンサー歌手音楽隊が舞台を埋め、華やかに年末の浮き立つ気分を盛り立てた。

 そして第2景、植木等のナツメロにいきなり舞台はクレージーと植木さんだけに集中し、植木等ヒット曲のメドレーが始まる。

 私は急いでロビーへ走り、客席7番に入って満員のお客さん達の後に立った。

 第2景の音が入って舞台は暗転し、そして植木さん1人が広い宝塚劇場の舞台の真中にスポットライトで浮き出した。全館から大喚声が起きた。そしたら植木さんが客の方を向いて笑った。この1週間で遂に笑った。アッハッハッハッハッーとあの笑だ。満員の客は全員が拍手をも叫んでいる。スーダラ節!スーダラ!という声がそこここから聞こえる。ハナ肇がドラムを叩く。谷啓のトロンボーンかわイントロを入れる。そしてその全員が演奏をし始める。

 植木さんが全館の客に対峙して前に進み出た。 歌うか。 歌うか。

”チョイト一杯のつもりで飲んで……”

 歌った。歌い始めた。

 再び前に増した大喚声。名状し難いとはこういうことを云うのだろう。喚声には喜びと共感と悲鳴のようなものと、すべてが入りまざった、地鳴りのような響きがあった。

 植木さんはこの大衆の声と折合いを付け、自分の中の葛藤にけじめを付けたのだ。

 スーダラ節は素晴らしかった。人々の全ての緊張を解き溶かし、時代を背負っていた。

 私は学習院の先輩三島さんの切腹も、自衛隊も、天皇陛下もみな忘れて、植木さんの歌に身を委ねた。 不思謡に心地良かった。

 三島さんの事は11月25日以来、あらゆる人が意見や感想や主張を述べていたが、私の心に未だに刺さっているのは、先頃亡くなった漫才の内海桂子師匠のシャープなコメントだけだ。

「あんなねえ、私はしませんよ。人様のお子さんを巻き添えにして。あんな若い人を。自分が独りで死ねばいいんです。」

 庶民の視点だ。三島さんの視野に無かったのは、庶民・大衆である。 大衆の支持無くしてなんの決起だろうか。

 時代は植木さんの時代であって、三島さんの時代ではなかった。あの頃はそういう時代だった。

#演劇 #プロデューサー #植木等 #三島由紀夫 #クレイジーキャッツ