中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

清水邦夫 ロンドンの晴舞台

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(24)ー(悲劇喜劇2021年9月)

 清水邦夫は私になつかない人だった。

 抑々のお付き合いは、1982年に日生劇場で上演した、「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」という、例によって長い題名の芝居を書いてもらった時に始まる。この芝居は私が企画した新潟のデパートに実在した少女歌劇団の話から創作してもらったもので、「三十人のジュリエット」というのが実際は40人になり、この40人を淡島千景、久慈あさみ、甲にしき、以下の全員宝塚歌劇団のO・Gが出演する、という思い出しても背筋が寒くなる体験をさせてもらった。だから清水邦夫というと、この宝塚のジュリエットたちの大変さを思い出して、いい印象は無いのだ。大体始めから原稿が10枚15枚と書き上ってきても、私に直接それを渡さず、演出の川幸雄経由で渡して来るのだ。 私に会って原稿を渡すと、「東宝」が直接立ちはだかって来るようで嫌だ、というのが蜷川経由で原稿を渡す理由であった。私の方はプロデューサーとして役割を果せないし、第一面白くない。

 人になつかない人だがかつてコンビを組んで仕事をしていた蜷川とは、ずっと離れ難い絆が切れていなかったようだ。

 しかし、私が蜷川を1974年東宝に誘った為に、そのコンビとしての仕事を解消せざるを得なかった歴史的事実がある。だから私にはずっと含むところがあったのだろうか。それらを考え合わせて、清水邦夫 腹の小さい男というのが、この頃の私の思い込みであった。

 

 だからその時、ヴァージン航空のロンドン行きの機内で、半分眠っているところを起された時は少しびっくりした。

 私は清水夫妻を伴って、「タンゴ・冬の終わりに」のロンドン公演の12月7日から10月26日に早まった千秋楽に間に合うべく、ヴァージン航空アッパークラスの東京・ロンドン便に乗り、東京を飛び立った所だった。「タンゴ・冬の終わりに」は、清水さんの脚本で、英訳して、ピーター・バーンズという英国の脚本家に脚色してもらい、ロイヤル・シェイクスピア劇団に所属歴があってその頃「ダイ・ハード」などのハリウッド映画でメジャーな国際スターになり始めていたアラン・リックマンを筆頭に、全て英国の俳優により、蜷川幸雄の演出、スタッフは全員日本勢で、8月8日から10月7日までエジンバラ・フェスティバル、8月23日からす12月7日ロンドン・ウェスト・エンドの一流劇場ピカデリー劇場で長期上演するという、一時代を画する大公演である。勿論この全てを仕掛けたのはプロデューサーの私と私の会社ポイント東京社だ。

 

「中根さあん」

 なんだ、 なんだ。清水さんの方から、飛行機の中で寝かかっている私に話しかけて来るなんて全く珍しい。身を起こして、はいはいはいと見ると、清水さんは満面に笑みを浮かべて、手にはシャンパンを持っている。後ろの松本さんも同様だ。

「中根さん、乾杯しましょう。 カンパイ。」

 ここに至る諸々のインシデントで、カンパイをここでするという気分に無かった私は、いささか面喰らったが、それでもヨッコラショと立上った。

 そうか、嬉しかったのだ清水さんは。自分の作品が英国で、英語で、英国人の役者で、8月8日のエジンバラから、来週、ロンドンの千秋楽迄、3ヵ月近く上演されるという、日本の劇作家として、いわば異常なこの状況が心から嬉しかったのだ。

 私もグラスにシャンパンを注ぎ、シベリア上空あたりで、3人でカンパイした。

「おめでとう、カンパーイ。」「カンパーイ。」「カンパーイ。」

 シャンパンを呑んで私も高揚した。明治以来の演劇の輸入。演劇の「本場」は時にロンドンであれモスクワであれニューヨークであれ、一生懸命外国語を翻訳してシェイクスピアからロイド・ウェバーまで、輸入にはげんだ、植民地の文化のような状況に、今、一矢を報いることが出来たのだ。

 日本の現代劇が自然に、知らぬ間に翻訳され、普通にどこかの国の演劇人が上演しているように、そのような状態こそが自然でありその逆の状態が普通になっている日本の演劇状況に何故苛立ちを覚えず、下北沢あたりで何千人動員したと満足しているのだろう。役者は渡辺謙を筆頭にやっているではないか。

 作家はグローバルな演劇市場の鑑賞に堪え得る作品を書くのを当然のこととし、演出家は(蜷川が出来た様に。ピーター・ブルックがそうであった様に)国際的な演劇シーンに身をさらして仕事をするのを日常茶飯事とすべきだろう。

 ところがこの時は10月半ばで、12月7日千秋楽の予定が、ロンドンは2ヶ月公演に縮めて10月26日に閉めると決定した為に、清水さん、もう閉めるよ、行くなら急いでとなったのだ。

 理由は二つあった。

 一つは明確な事故。チケット会社のキース・プロウズが9月の初めに倒産し、金を払ってチケットを持った客は劇場に来るが、その金は私の会社に永遠に入ってこないという、悲惨な状況が生じた為。

 二つ目は後に述べるが、イギリス中のは世界中のメディアが集まるエジンバラ・フェスティバルでの批評が、特に済水さんの脚本に対して批判が集中したことである。

 はっきり云えば、キース・プロウズの事故を乗り越えて公演を続ける、あわよくば12月10日を過ぎても無期限ロングランを続けるという、私の野望がそれによって潰え、公演続行が不可能になった為。

 この二つに尽きる。

 にも拘わらず、詳しいことは、特に批評については知らせていない清水さんは上機嫌であった。

 シャンパンが利き過ぎたようだ。

 飛行機はスムースにロンドン、ガトウィック空港に到着し、私達3人はヴァージン航空がサーヴィスする車でロンドン市内に向った。

 私は助手席に座ったが、運転手の英国人は気の利いた男だった。

「旦那、急がないんなら、高速に乗らず、下の道を、田舎の村々を通って行きませんか。この季節舎の景色は紅葉でおすすめですぜ」

 大賛成して下の道を行った。小一時間の道中は素敵だった。 清水夫妻は窓外のパノラマに、子供の様にはしゃいでいた。

 車は直ぐにロンドン中心部、グリーン・パークに程近いハーフムーン街の「フレミングスホテル」に到着した。 このホテルは古びているが快適で、蜷川始め、朝倉摂、吉井澄雄、本間明、小峰リリーという日本演劇代表団のような、 豪華スタッフ陣が全員泊っている。蜷川と私と演出助手の村井の3人は、キッチン、リヴィングルーム付のペントハウスに泊った。 みんなで打合せをしたり呑んだりするのに便利だからだ。清水夫妻の部屋はペントハウスの真下の大きめのツインルームだった。

 翌日、ホテルから歩いて10分程も無い、ピカデリー劇場の2階ロビーのバーで、役者達も出席して清水さんの歓迎パーティーが開かれた。役者達も清水さんに山程質問があるようだったが、開演前のこととで、そこは控えてウェルカムのムードに包まれたパーティーだった。

 その夜の公演を水邦人は奥さんの松本典子と共に見た。終演後上気した顔だったが ニコニコと上機嫌だった。しかし相変わらず、私には何の感想も言わなかった。

 私は終演後、清水夫妻と蜷川幸雄を、 ソーホーの中華料理店“富臨菜館"に招待した。ここはソーホーの中華の中で、裏通りにあるが、一番に旨い広東料理店で、私なりに心を尽して料理をたのんだが、グルメでない蜷川は一通りガツガツと平らげると猛烈な勢いでし始めた。主に7月の稽古中のことである。稽古初日に、アラン・リックマン始め役者達が皆すべてセリフを覚えていたこと、愛人役のビーティ・エドニーが役者達を代表してこれを投げろと灰皿をプレゼントしてくれたこと、そして話題はイギリスの役者達が如何に素晴らしくプロフェッショナルであるかということに移った。イギリスでは役者達は誰も付人やマネージャーの類いを連れていない。マネージャーなどは稽古場に入ることすら許されていない。 テムズ川の川畔にある稽古場はロフトを改造したもので、質素だが広く、しかしロンドン中心部からは地下鉄で10駅程も乗って行く所にあって、駅から稽古場迄は徒歩10分もある。タクシーに乗りたくなるが、タクシーを使っていたのはハリウッド映画に出て金持のアラン・リックマンだけで、しかしアランはいつもタクシーを駅で待たして置いて、地下鉄から次々降りて来るの役者達のだれかれ若い連中まで詰め込んで来てた。イギリスの役者たちは素晴しい。演技が素晴しい。みんな完璧にリアリズムの演技を身に付けている。中でも主人公の女房役のシュザンヌ・バーティッシュは凄い。ロイヤル・シェイクスピア劇団にも居た役者だがヒステリックになりそうになる内面を、物凄い力業で抑え込んで、静謐なまでの芝居をする。あんな役者日本に居ないな、な、そうだろ清水。

 清水はニコニコ笑いながら、ウンウンとうなずくのみである。その時松本典子は世にも不愉快な顔をしてソッポを向いていた。松本典子はそのシュザンヌ・バーティッシュと同じ役を84年の初演から日本でやっているのだ。

 蜷川は全然気付かず松本さんの存在や忘れて更に熱弁を振っている。

「な、だからよ、役者がいいから、芝居全体の熱とかエネルギーみたいなもんが桁が違って来るんだよ。」

 危い。危い領域に話が入って来た。

 イギリスの厳しい批評は、清水邦夫の脚本について圧倒的に厳しかったのだ。

「ピランデルロとマルグリット・デュラスの中途半端な折衷。」(サンデイ・インディペンデント アーヴィング・ウォルドール)

「この演劇が忘れ難い作品らしく映るのは、イメージや音楽によるムード作りのゆえであり、テーマや内容のせいではない。」(インディペンデント ポール・テイラー)

「見事な演劇性をもって展開するシンボリズムを持ってはいるが、生身の人間が十分描かれていない。」 (サンデイ・タイムス ジョン・ビーター)

 以下大同小異であるが、 敢て要約すれば、蜷川の演出とすぐれた役者達によって、ある演劇的情緒を作り出しているが、いかにもピランデルロ風の作品が、ピランデルロ流の人間描写にも会話の展開にも欠けている。ということだろうか。

 丁度次の料理が来たけれど、清水さん、帆立の紙包み蒸しなんぞニコニコ拡げてる場合では、本当はないんだよ。

 1ヶ月以上千秋楽を早めて芝居を切るというのは大変なことなんですよ。 私は実は大変な目に会ってるんですよ。

 蜷川が続けた。「おう、そういえば中根、あの床屋の”トランパー”のビルどうした。あれもあきらめたんだろ。」

「そりゃもう終った話だ。“タンゴ”があと一年も続いてればの話だからね。」

 実は7月の1ヶ月の稽古中、イギリスの習慣で毎週日曜日稽古は休みだった。我々日本側スタッフは、これはいいと毎日曜日ロンドンを満喫した。といっても、日曜日ロンドンは全ての施設も商店も同じ様に休み、ホテルでゆっくりするか、皆で街を散歩するしか無い。丁度その頃ロンドンは不景気のどん底で、街路毎に不動産の売り広告が7件や8件目立っていた。「家やアパート買うんなら今だねえ。」と朝倉さん。「そだそだ誰か買わねえか。」と蜷川さん。私は実は芝居が大当りして本当のロングランになったら、ロンドンにオフィス兼住居を構えて「ポイント・ロンドン社」を設立すると半ば本気で夢想していた。その買おうという不動産の第1補が、ホテルを右に出て五十メートル行った突き当り、カーゾンストリートの有名な理髪店「トランバー」が1階にある5階建の間口のせまい古い小さなビルで、丸ごと売りに出ていた。1番こういう話に積極的な小峰リリーさんがたちまち不動産屋に電話して、値段は2億円と格安で更に交渉の余地ありと、手の届かぬ額ではない。2階以上は現在空屋、5階はアパートメント仕様になっていると、更に更に魅力的。

「おい中根、これ買えよ、買えよ、みんなロンドンに来たらここに泊れるし。」と完全に買える気になっている蜷川。確かに毎朝みんな三々五々集まって朝飯を食う、シェファード・マーケットの“ヴィレッジ”はそこからわずか50米。 立地条件としてこれ以上の所は無い。

「という話があったんだよ。 清水。明日の朝メシの時そのビル見せるよ。いーぞー。」 清水はフンと笑って応えなかった。

 2人共朝の早い蜷川と清水は、ここロンドンでも朝8時頃落ち合って朝ごはんデートをしているらしい。

 それもこれも、私の野望も、キース・プロウズの倒産と、10本程の情け容赦も無い批評によって今は夢と消えた。

 清水さんは批評について一言も聞かなかった。こちらも敢て話さなかった。

 清水さんが関心があるのは脚本のディテイルについてのイギリスの役者の”表現”や観客の”反応”といった演劇のせまい世界の問題であって、今回の公演の規模や歴史的意味やそんなことには全く興味がなさそうだった。

 劇作家という人種はそういう場合、仕合わせな人たちだ。

 清水さんとはこの翌々年、セゾン劇場(当時)で美空ひばり母娘に想を得た「ひばり」(仮題)を書き下し上演することになったが、初日10日前に執筆放棄されて(この連絡も蜷川経由だった)、以来会っていない。

#演劇 #プロデューサー #清水邦夫 #雨の夏三十人のジュリエットが還ってきた