中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

若山富三郎 「先生」と云う男

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(10)ー(悲劇喜劇2019年3月号)

 若山さんとは『ノートルダム・ド・パリ』のせむし男クァジモド、 『三文オペラ』の乞食の大将ビーチャムの2本を付合ってもらった。いずれも存在感に於て並居る役者を圧倒する人で、東映のヤクザ映画の印象が強く残るが、もっと情感のあふれる、芸術座あたりで山田五十鈴さんなんかとしんみりした芝居を企画すればよかったと今も思う。

 但しそれに付合うスタッフ達は命の縮む様な思いを何度することになっただろう。何しろ若山さんは自身のことを俺とも僕とも私とも云わず、「先生」と云うのだ。「先生の衣裳はどれだ」「先生はその芝居に出てみるか」てな具合である。初対面の時先ずそれで面食らった。「『三文オペラ』ってオペラか? 先生はオペラは歌えねえ。長唄なら出来るがな」「長唄で結構ですから演ってください」……「何、栗原小巻が決まっている?そうか、先生はやる」 こんなことだったと記憶する。でも「先生の衣裳は……」の時はみんなたいへんだった。写真スタジオにロールス・ロイスで乗りつけ若山さんは東宝のスタッフはみな初対面、いきなり「先生の衣裳はどれだ」と云われて、衣裳さんたちも意味がつかめず、「えーとせんせいの衣裳は…」と役者たちの顔を見まわして右往左往。危機一髪私はピーチャムの衣裳がそろえてあるのを発見して、「先生これですこれです」「そうかいこれかいこれかい」よかった。

 ロールス・ロイスに乗っていたが若山さんはいつも金に困っていた。車も車の販売店から試乗ということで借りて乗り廻しては、しびれを切らした販売店から、”そろそろお買取を”と迫られると、”やっぱりこの車先生は気に入らね

え”と返却するということを繰りかえしていると聞いた。ホテルも同様の手法で長期滞在しては借金したまま別のホテルに引っ越すという手法だった。何しろあの押し出しだ、そんなやり方で済んでいたらしい。

 ある晩深夜に若山さんから電話があった。低い押し殺すような猫撫で声だ。「夜中に済まねえなあ中根、折り入って頼みがあるんだ」「何ですか先生」「あの明日の朝迄に500万円貸してくれ。お前男だろ」 その頃私は家を買う為に

貯金した小金を持っていた。チラとその金が頭をかすめたが、かろうじて踏み止まって答えた。「明日の朝金策をしてからお返事します」

 若山富三郎ほどの男に「お前男だろ」といわれて悪い気にさせない何かを"先生"は持っていた。

 夜が明けて私はマネージャーに電話をし、事の次第を告げた。「中根さん、とんでもない。先生また、だめです、ぜーったい貸しちゃ駄目です、返ってきませんから、ほんとにまた、私の方から言っておきますから忘れてください」

 錯乱したマネージャーの「先生また」の一言が私を目覚めさせた。私は先生に電話せず、先生は私にその日の帝劇で会っても何もなかったかの様に機嫌が良かった。プロの大物だ。

 私は一度勇を鼓して若山さんに聞いたことがある。「先生なんでそんなに借金こさえたんですか?先生は勝さんみたいに銀座で派手に遊んでシャンパンのガブ呑みする訳じゃなし、甘いもん好きの酒は駄目という人が何にそんなに金遣ったんです」 「なべだぁ」「は?」「鍋でだまされた」アメリカから新式の圧力鍋を輸入して日本で大量にさばく、というもうけ話に乗って結局鍋だけ残って金は入らずということになったそう。 新聞グネにもなったこのサギ酷に若山さんは引っかかって何億円損したとのこと。だまされ方までマンガチックだ。「鍋はまだ倉庫にある。要るかい?」 「要りませんそんなもん」この人はどこかに可笑しみを漂わせている。

 そんな人が怒ると怖い。怖いことこの上ない。

 蜷川幸雄と私は『三文オペラ』の時、先生に本気でステッキで殴られそうになった。 ステッキも乞食の親分が持つ極太の棒の様なやつだ。

『三文オペラ』は四層建ての巨大なセットが話題を呼んだが、帝劇の広大な舞台にそのセット、そのまた前の空白の空間に若山さんはポツンとひとり立って「長唄」を歌うのが幕開けだった。舞台稽古で蜷川は舞台空間のスキマの多過ぎる白々しさに、急遽何十人かの乞食の群れをセットと若山さんとの間に入れたのだ。若山さんに何も云わずに。これがいけなかった。 その場が終って劇の客席がまだ暗い中、先生の虎の咆哮の声が囁いた。「蜷川を呼べえ!中根を呼べえ!」飛んで行くとステッキをかまえて突進して来る先生の姿があった。「先生の芝居が保たねえならそう云え! てめえ!」 付き人たちが腰にすがって引き留めようとするのをズルズルと引きずりながらステッキを振り上げて迫って来る。蜷川は私の後ろで直立不動で硬直している。私は逃げてはいけない、と本能的に思った。私も直立不動のまま必死に弁解した。 「いやそうじゃなくて先生、セットがあまりにデカ過ぎるので空間を埋める為に乞食をあそこに……」 もうステッキは届く距離だ。ガンと一発来るのを覚悟して、逆に胸を張って受け止める姿勢になった。止まった。そこで止まった。先生は荒い息と共にステッキを下げた。助かった。蜷川は直立不動のまま終始一言も発せず頭を下げたままだ。

 これは蜷川が悪かった。乞食の群れを入れる前に一言先生に断わりを入れるべきだったのだ、

「ノートルダム・ド・パリ」でのこと。事件は平和に済まなかった。 若山さんはせむし男、エスメラルダを浅丘ルリ子さんがやっていた。そしてエスメラルダを縄付きでしょっぴく牢番の男を若山さんの口利きで座組みに入った、東映ヤクザ路線出身の若山さん弟子筋、面構えも世にも恐ろしい40才くらいの役者がやっていた。Aは物覚えが悪いタチらしく、エスメラルダを縄付きで引きずり出すきっかけを何度となく間違えた。エスメラルダの浅丘さんは、自分はしばられているのだから、自分からきっかけで出る訳にはいかない。どうしてもAが出のきっかけでエスメラルダを引きずり出さねばならない。ところがどうしてもAは出のきっかけがとれず、従って浅丘さんは大事な出のセリフを自分がトチった様になってしまう。スタッフは困り果て、この場のヌキ稽古を行なった。それでもAはきっかけがとれない。私は非常手段をとる事にした。若山さんにのAのトチリをチクルのだ。今日のマチネーの本番でも芝居に差し障りが出た。仕方がない。先生に直接叱られればAも少しはピリッとするだろう。私は楽屋に行ってなるべく若山さんを興奮させない様にAのことをしゃべった。しゃべり終らないうちに若山さんは風呂上がりの裸の腰にタオルを巻いた姿でいきなりスックと立ち上がった。 そのままAの特訓稽古が進行中の舞台に走りだした。ヤバイ。私も後を追った。凄いスピードだ。 若山さんはいきなりんの頭をつかむと舞台に引き倒した。倒す間に顔をすでに2、3発殴っている。「おどりゃー、足腰立たん様にしてやらにゃ分からんのかい!」すでに馬乗りになってAの顔をボコボコに殴っている。 貴ノ岩どころではない。違う時代の出来事で良かった。演出部はみんな真、足がふるえている。ルリ子さんは気持ちが悪くなり、他の役者たちもすでに遠巻きになって逃げ腰だ。尚も殴り続ける若山さんを私はようやくなだめて引き離した。それから楽屋でAは散々に説教された。正座してうなだれるAの腫れあがり変形した顔

と、時々私を盗み見る恨めしそうな目が忘れられない。

 その晩、終演後の九時半を過ぎた頃、楽屋口で若山さんにつかまった。「おう中根、帰るのかい。一寸銀座迄付合わないかい」猫のようにやさしい声だ。昼間のこともあり気が進まなかったが、付き人たちも行ってやってくれとこっちに手を合わせて拝んでいる。銀座?はて若山先生呑めないはずじゃなかったかと思ったが、こっちは酒は嫌いでない方、付合うことにした。日生劇場から銀座方面へ真っすぐのはずが少しずれて歩いて行く。あら、交差点を渡って日劇の前に出た。おかしいな、こんな所にもクラブやバーの類があるのかあるのかしらと思ってると、すぐ前の数寄屋橋デパートに入る。益々面妖なと思うと地下に降りた。地下を百メートルほど歩くと、小さな小さな二間間口程の和風ののれんのかかった店に入った。何と甘いもの屋だ。それも高速地下のデパートのそのまた地下の女子供が買い物ついでに入る様な甘味店だ。「ここはなあ、汁粉がうまいんだ。 中根、汁粉は好きか」好きかったってこんな所へ入っちまって好きかもないもんだ。こっちはてっきり所謂銀座のバーへ連れてってくれるとさもしい早チリをしたのが悪かった。しょうがないとことん付合いますさ先生。「僕は所天をいただきます」「甘いもんはいやか」 せめて所天で勘弁してくださいよ。なんということだろう。小さな甘いもん屋で女性客の中、先生と私は甘いもんのお替りをした。次は先生汁粉のにあんみつ。 私は所天の次にみつまめ。 「金つばもどうだい」もう気持ちが悪くなってきました。今日はとんだ日だ。先生の乱暴狼藉の後に甘味攻め、その落差の激しさに私はついていくのがやっとだった。でも優しい時はとことん優しいのだこの人は。

 それにしても惜しい役者を早死にさせたものだ。死に至らせた原因は糖尿病とのことだった。 若山さんは世間が知っているよりももっともっと多様な可能性を持った人だった。私は『三文オペラ』の後、芸術座で若山さんと勝新太郎の兄弟二人の芝居、文楽の太夫と三味線の物語をやるべくひそかに企画していたが実らなかった。

 もっとも実っていたら私は二人の間で半死半生、再起不能になっていたかも知れない。

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