中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

塩島昭彦 天然の変人「チョーさん」

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(13)ー(悲劇喜劇2019年11月号)

 塩島昭彦といっても古い文学座ファンを除いて知る人も少なくなってしまったが、奇人変人の多い文学座の役者の中でもチョーさんは変人として名高い人だった。本当に惜しいことだが、アパートの階段を転げ落ち亡くなってもう何年にもなる。彼は変人と云っても、偏屈な変わり者系ではなく、陽気で天真爛漫、根が優しいので誰にでも好かれるタイプの人で、インテリで芝居に一家言あり、酔って演劇論を始めると皆が耳を傾けた。ただ酒が好きで相当呑んだが、酒の入った時だけが要注意になる男だった。

 芝居は上手く、舞台で独特の存在感があり、貴重な脇役で得難い人なので私はこの役者を重用した。チョーさんと云えばあの人の好さそうな長い顔と少し怪しい笑み、手足をもて余したような長身の身振り手振りを思い出す。

 その日はまた『近松心中物語』の公演中の小パーティーで、青山のクラブに主だった俳優10人ばかりと蜷川、私、それに珍しくも秋元松代先生という顔ぶれだった。ただし蜷川と私は次の公演『ノートルダム・ド・パリ』の打ち合わせで高橋陸郎と会う約束があり、途中で抜け出さねばならなかった。秋元先生を想うとこの抜け出すというのがなかなか難しく、私と蜷川はタイミングを計っていた。ただその間にも会は盛り上がり酒は強み、秋元先生はどんどん酔っていく。抜け出す気配をさとられてはいけない。特に太地喜和子には気を付けなければ。危険だ。

 皆がそれぞれ手持ちの得意の歌を歌い始め、金田龍之介さんが軽いノリで巨軀をゆすりながらジャズ・ナンバーのいくつかをこなして会の雰囲気は最高になった。

 その時喜和子がよせば良いのに甘ったれた声で云った。

「ねえねえ秋元センセ、センセも何か歌って下さいな」

 秋元先生はすっくと立ち上がると厳しい顔と声で全員に宣言する様に云った。

「私の”かさぶた武部考”に出てくる”御詠歌”を歌います」

 みんなシーンと静まり返った。ジャズ・ナンバーのあと御詠歌?何だそりゃ。

 でも、とに角御詠歌は始まった。秋元先生は野太い声だった。じっと目をつむったまま、地を這う様な歌はつづく。 歌というよりそれは呪文のようであった。みんな我慢をして聞いているフリをする。更に歌はつづく。先生は目をつかったままである。

 今だ。この座をずらかるのは。今しかない。私は蜷川をうながし2人足音をひそめて一座を抜け出しタクシーを拾った。後は、後のことなぞ知るもんか。みんな適当に先生をなだめてくれるだろう。

 後のことはだから私は現場を見ていない。十指に余る目撃者に翌日聞いた話である。

 歌い終わって蜷川と私、2人がずらかったのを発見した秋元先生の荒れ方は、私の予想を遥かに超えるものだった。

「あいつらはどこへ行った。帰ったのか。無礼者」

「次の仕事だ?益々無礼だ。呼びかえせ。 電話を調べろ」

「帝国ホテルで打ち合わせ?帝国ホテルに電話しろ!」

 山岡久乃がなだめても、太地喜和子がしだれかかっても、罵声は止むことを知らず、ついには「中根の家にすぐ行くから車を呼べ」。(実際タクシーで私の家近辺まで来て、 マッチの火で表札を一つ一つ照らしながら探したとの事)という騒ぎになったその時、誰もが思いもかけぬ方法で、しかも一瞬にして秋元先生をめてしまったのがチョーさん、塩島昭彦だった。

 ソファーにあぐらをかきを怒鳴りまくる秋元先生の真後ろから近寄ったチョーさんは、「先生そんなに怒っちゃ駄目よ」と云うなり、いきなり先生の顔を後ろから両手で挟みつけ、ガバと先生の口にキスをした。 しかもディープなキスで舌も入れ(本人談)、暴れる先生が大人しくなるまでゆっくり愛情を込めてキスをしたとのこと。先生は腑抜けた様になってしまって呆気にとられた全員がただただ見守る中、 優しい山岡久乃に介抱されながらトイレに行き、長時間ガラガラとうがいをしていたそうな。 

 翌日さすがに劇場に来なかった秋元先生ので楽屋内は大賑わいだったが、当のチョーさんは事も無げに平気な顔で、私の質問の嵐に答え、「たまにはあのくらいのサービスしてあげたっていいでしょアハハ」とあくまで天然に明るい。 私は昨夜のいわば御礼と一種の申し訳なさとでチョーさんに詫びた。「チョーさん、御免ねキスまでさせちゃって。七十過ぎのおばあさんとキスするのってどんな?」「どんなって、普通よ。20も70も変わりないよ。そういうの僕ゆうべが初めてって訳じゃないし」「ひええチョーさん経験積んでんだ」「あるよ僕何人も。お年寄りとナニしたこと」

 1才でも年上は駄目という性分の私と較べて、チョーさんの人生は奥が深く私の様な若輩者とは訳が違う。私は塩島昭彦を尊敬した。

 一寸尊敬したこともあるチョーさんだが、破滅的な打撃を被ったこともある。海外でのことだ。イタリア北部の町アスティで私達は『王女メディア』の公演をしていた。町は静かで小さく、ワインとイタリアのシャンパンーースプマンテが名物の穏やかさ以外に何もない様な町だった。劇場は町中の大学の内の中庭に特設した野外劇場。町の中心の広場に面した小さな二階建ての我々のホテルから歩いて五分という、まるでホテルが劇場のような気安さだった。開演は毎夕8時半から9時頃、頃というのはそもそも夏のイタリアは日没が遅いうえに、雲の具合の関係で判然と暗くなってくるのが毎日定まらないからで、こんなのもゆるーいイタリアの雰囲気と相まって、野外公演の楽しさだ。客も勿論騒がないし、主催者も「あと10分くらいしたら始めていいかね中根サン」とのどかなものだ。

 チョーさんは3日目の晩、ホテルの相部屋の大門伍朗と、終演後帰って来たら1杯やる積りで、昼のうちにワイン数本、サラミソーセージ、チーズなどなどを仕入れておいた。私がそれを知ったのは終演後劇場指定のレストランで同僚の堀井康明と食事をしてくつろぎ、「芝居は当たっているし、まあいい公演だねぇ、ここはメシも旨い町だし」といい機嫌でホテルへ戻ってきて、入口で何か云いようのない異常を感じた後だった。

 ホテルの支配人が私に向って両手を構え、自動小銃で撃つ真似をする。入口のカウンター付近は何とも云えず湿気に満ち、足元のカーペットはビチャビチャと靴にまとわりつく。支配人は強引に私の袖をつかんで、2階の入口の真上、塩島と大門の部屋へ階段を引きずるように連れて行く。「シニョーレ。この部屋の2人は間違いなく死刑だ。少なくとも終身だ。これを見てくれ」

 チョーさんは部屋には居ず、大門独り惨憺たる有様の部屋の斜めになったベッドに、お女郎さん座りに座って泣いている。

「伍朗ちゃんどうしたのをやったの」。私は声を荒らげた。「シクシク」。大門は声にならない。埒が明かない。

「アックア (水)!!」支配人が大声をあげる。洪水が起きたというのだ。この部屋が水源で、この部屋の2人が原因で!

 チョーさんが戻って来た。全く悪びれることなく、例の如く明るくニコニコしている。平気で居るチョーさんに事情を詰問すると、洪水とはこういうことだった。

 開演前に仕入れていた、ワインとおつまみの食物を、冷やしておこうということで、「ビデ」(ヨーロッパのホテルには殆ど必ず部屋に設置されている)に入れ、水を出しっぱなしにして冷やした(キタネー)食べ物の入ったビニール袋が「ビデ」の排水溝に詰まり、水は出しっぱなしだから、約5時間にわたり・ホテルの2階から1階の全域を浸し、ようやく10時半になって、二人が持ったまま外出した部屋の鍵をこわし、支配人が原因を突き止めて洪水を止めた。結果この2人の部屋は床から20センチ位の所まで、壁紙は喫水線の所で色変わりし、木製の大きな洋服は浮いて位置を変えトイレの入口を塞ぎ、更に部屋の外では廊下のカーペットをビショビショにしたあげく、1階の部屋々々の天井や壁に大きなシミをつけ、いくつかの部屋では電気の配線にダメージを与え、ようやく入口真上の2階バルコニーから尋常ならざる量の水が落ちてきて支配人が気づいたとのこと。

 支配人はイタリアのインテリによくいる、ヤセ型のスマートな男で悪い人には見えないが、これは結構な賠償金を覚悟せねばならないと私は内心震えた。

 チョーさんはといえば陽気にはしゃいで、帰って来る人ごとにつかまえては、「大変だったのよ」と他人事の様に一部始終を話している。いつの間にかチョーさんのまわりには人だかりが出来て、何か凱旋将軍の自慢話を聞く様なありさま。

 私は頭にきて、その気はなかったがチョーさんと大門に云った。

「これは自己責任だからね。賠償金のこと、考えといてよ」

「アラ大変。どうしよどうしよ」

といったって、この2人に払える程度の金額ではないだろうことは明白だ。このイタリア・ギリシャ公演は金に困って困って、女房の貯金にまで手をつけようという場合。 出発前に東宝とモメたあげくに成立した公演で、東宝が冷たい顔をするのは火を見るよりも明らか。さあどうしようどうしよう。

 ということで一応事が静まった未明に私は支配人にオズオズと切り出した。

「金をいくら払ったらいいか、金額の目処のつき次第、 イタリア側のインプレサリオ・マリオ・グァラルディにでも、私に直接でも連絡して下さい。 決して逃げないから」

「まあまあシニョーレ。今日はもう昨日になっている。こんな時間に金の話なんて嫌じゃないか。もう寝ようよ。話は朝になって新しい日が射してからだ」

 私はずいぶん心なぐさめられて、ベッドに入った。何時間寝るほどもなく、イタリアからギリシャへ移動の日の朝が来た。 私は支配人を探してつかまえ、また切り出した。

「賠償金の話だけど……」

今度は支配人の態度はキッパリと明快だった。

「日本人はこんな朝早くに金の話をするのかね。下品だ。 イタリア人はしない。そんなことよりお前さん達の芝居は大層評判がいい様だから、きっとまたこの間に来るだろう。そんな話はその時すればいいじゃないか、アテネでも成功することを祈っているよ、チャオ」

 私はこの空港行きのバスの中でみんなにした。

 チョーさんはゆうべ以来、ビデ夫人”と呼ばれる様になっていたが、この話で支配人は“イタリアの誇り”、チョーさんは“日本の恥”とも呼ばれる様になった。

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