中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

杉村春子さん 芯の怖さ

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(14)ー(悲劇喜劇2020年1月号)

 杉村春子さんに、東宝の芝居に出演してもらおうと思ったのは、山田五十鈴さんの「たぬき」が芸術座で空前の大当りをとり、私としても先行きこれ以上のヒットを望むには、と次の一手を考えてのことだった。

 それには杉村さんに御出馬頂いて、杉村春子ー山田五十鈴という顔合わせの芝居を芸術座で打つというのが、演劇史上に残るような公演になり、また観客の要望に応えることにもなるだろうと思ってのことだった。

 しかし杉村さんにその気になってもらうには3年ほどもかかった。勿論文学座内部の諸事情とのしがらみもあるし、 はじめての商業演劇公演への出演という気の重さもあるだろうし、なかなか気軽に出てみようという気にはなれなかったのだろう。

 それでも私はしつこく依頼し、しまいには文学座の地方公演で杉村春子一座の時、その公演先の京都とか果ては佐賀とか、田舎にまで足を延ばして、手みやげを携え楽屋を訪い、頭を下げまくった。

 手みやげには、文学座からの情報を元に、お茶漬けの友が鉄板と思われた。 杉村さんは食事の最後は必ずお茶漬けでめるということを聞いたのだ。よって京都では三条の駅の傍らにある名物“お茶漬けうなぎ”を持参。杉村さんは歓声を上げて喜んでくれた。そして私の口説き文句を少しは聞いてくれた。佐賀では、遠いところまでということもあり、楽屋を訪ねるなり笑顔で接してくれ、夜の部のない日であったので夕食をご馳走になり、2人きりで話をゆっくり聞いてくれた。その結果、「この年になって私はきたならしい役はやりたくないんですよ」などいくつか条件めいたことまで口にし、新作でやること、文学座の役者を何人か入れること、など具体的に進み話は佐賀でまとまった。

 旅が終わって東京に帰って来たのを見計らって、時を置かずに山田五十鈴ー杉村春子の2人の顔合わせ夕食会を有楽町の料亭でやった。

 お2人の他に東宝・文学座のお偉方数人が出席する儀式めいた会だったが、2人からはそれぞれ事前に、当日相手が何を着て来るかの問い合わせがあった。着物でしょうとそれぞれに答え、当日は2人共着物、それも選りすぐった物を着て来たのは見物だった。会うなり互いに相手のお召し物をひとしきり褒め合うところから始まった。これは花柳章太郎からもらった帯、 これはどこそこのおばあさんがもう1人残って、その人しか織る人が居ない布、などなど長く続き、食事が始まっても、山田さんは戦時中長谷川一夫と田舎まわりの旅公演の苦労話、杉村さんは文学座分裂の時どれほどの人に裏切られ傷ついたかという深い話までして、2人は互いに認め合い信頼し合って、一緒に芝居を1本作りましょうよ、という雰囲気で終わり、会は成功だった。

 新作でということで作家は山田さんと縁が深いこともあって榎本滋民に決まった。演出は榎本滋民の場合自分でやる。主演俳優が2人先に決まって作家演出家がそのあとというのが“商業演劇”らしい。プロデューサーが先でまだよかった。プロデューサーが最後という場合だってよくあるのだ。

 いずれにせよ事は始まり、進んだ。山田・杉村公演ということで、世間の大きな話題になり、作家が誰であれ前売りの切符は売れに売れた。「たぬき」に続く大ヒットで私は会社に対し面目をほどこした。これがこう来れば、一方私がその東宝に引っ張り込んだ蜷川幸雄と相当無理なことをやっても話が通る。

 私は毎日の前売りの日の数字を見ながら意気揚々と仕事を進め榎本滋民を待った

 題名は「やどかり」と決まった。このタイトルは何で「やどかり」なのか芝居が終わっても分からなかった。本は遅かった。稽古の始まる直前だ。初日の前20日を切っていた。

 一読、愕然とした。山田杉村公演というのに、二人がかみ合う場面がないのだ。2人の人物の物語のパターンが並行進み、2人はほとんど会話すらしない。

 こんなことで、こんな本で、世間に申し訳が立つか。3年前から私の口車に乗って頭を悩ませ、しまいには期待もしただろう芝居がこんな本になって、杉村春子に何と言い訳すればいいんだ。しかしもう全部書き直せという時間はない。稽古は始まる。

 稽古初日、本読みをする。終わって杉村春子の顔をうかがう。何ともいえない梅干をしゃぶったような顔だ。 先ずは反応を待つしかない。

 私は始まった立稽古を胃が灼ける想いで見ていた。

 その頃というか1950年代からずっと、東宝の稽古場は旧本社別館という5階建ての古いビルが有楽座の裏手にあって、そこを使っていた。 「やどかり」の稽古はその4階、板張りの古色蒼然とした稽古場で行われた。榎本滋民はその一隅ピアノの横の席に厳然と鎮座し、そのすぐ後、壁との間には古いあまりにバネがこわれ底の抜けたソファーが建物と同じくらい古く、忘れられたように据えられていた。

 稽古の最中、2人共出番のない時間帯に、杉村さんが私に目配せして、古いソファーに呼び出した。私は誘われるまま、榎本滋民の後50センチほどしかないソファーに腹をひっこめるようにして座った。ソファーは底が抜けているから、私は尻がはまり込み膝が胸につきそうになるような姿勢になった。

 杉村さんが左横に座る。いつもそうであるようにあくまで背筋を真っ直ぐにソファーの先端に座っているから、杉村さんは私のようにはならない。

 いつの間にか山田さんが近寄って来ていて私の右側に座る。やはりキチンと背筋を伸ばしソファーの先端に座るから、私は二人にはさまれ、小さなソファーの真中に埋没した格好だ。

 榎本滋民は私たち3人の前50センチの演出席にいて、 手を伸ばせば背中に触る位置だ。

 と、杉村さんが口を切った。

「なんでございますか山田さん、東宝なんかでは役者なんぞは御本をお書きになる先生には口出しなんか出来ないものでございますか」

「いいええ私なんかよく先生にお願いするんでございますよ。文学座なんかではいかがですかあ」

「私たちはしょっちゅう本に駄目を出すんですよ。宮本研の本なんかいつもズタズタにしてやるんでございますよ」

「まあそうですか。中根さーん。今度の御本は杉村先生と私とカラム所が少し足りないと思うんですけれど、そこのところを中根さんから先生にお願いしてみて下さいませんかあ」

「そうでございますね、中さんからお願いしていただくのがよろしゅうございますね」

「ではよろしく」

「よろしく」

2人はすべてが聞こえているはずの滋民亭(スタッフ達は陰でこう呼んでいた)に一番もくれず別々の方向に去って行った。

 私は冷や汗をビッショリかいて呆然と2人を見送り、それから滋民亭との話し合いにのぞんだ。

 ひとしきり口上を述べたら榎本滋民が云った。

「それは君の意見か、役者の希望か」

「私の意見でも、お2人の強い希望でもあります」全部聞こえていただろう。滋民亭はたまったものではなかったはずだ。

「やどかり」の本は山田・杉村が二人でカラム

一場を書き足す形で完結することになった。

 初日が開いてしばらく経ち、芸術座はこぼれんばかりの客で溢れかえり、杉村さんはわりあい機嫌よく毎日の大入り満員を楽しんでいるようだった。

 ある日私は所用があって杉村さんの楽屋を終演後すぐに訪ねた。扉を開けて挨拶する。

メイクを落とした杉村さんが、

「お疲れ様でした」

「お疲れ様」声と同時にこちらに振り向く、と同時に肩に羽織った浴衣をハラリと落として両肌脱ぎになった。

「アラ中根さん、アラアラマアマア」浴衣を肩に着ない。

 私は恐慌をきたしてあわてて後ろを振り向き楽屋を飛び出した。

「失礼しました」

 私があやまることはないのだが、びっくりして廊下を戻り舞台事務所に居た文学座のマネージャー根津に訴えた。 根津はケラケラと笑って言った。

「やるんですよ杉村は、気に入ったんだと。 中根さんあなた気に入られてるんですよ」

 気に入られたのはいいとして、本のことといい、あんまり

若いプロデューサーをおどかすのはやめてもらいたい。

 その後年が経って、文学座の何人かの女優たちにこれをやる人がままあるのを知り、私はそれを文学座の文化と理解することにした。今はこの伝統文化が受け継がれているか知らない。

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