中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

ヴィクトール・ガルシア 私を演出した天才演出家

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(22)ー(悲劇喜劇2021年5月)

 ヴィクトール・ガルシアと始めて会って話したのは、パリ国際演劇大学(Universite du Theatre des Nations)のサラ・ベルナール座の稽古場の教室でだった。

「あんた日本人だろ。俺ヴィクトール・ガルシア、アルゼンチンのトゥクマンの出身だ。一寸話がある。」

「何だい。トゥクマンでアルゼンチンの奥地の町だろ、知ってる。アタウアルパ・ユパンキの街だ。」

「お前ユパンキを知ってるのか。話せる奴だな。いや話って、芝居に出て欲しいんだ。下へ行こう。」

 2人で下へ下り、楽屋口の横のサラ・ベルナール座一階の角のカフェに座った。話は今度ヴィクトールが一座を組んで上演する、アルフレッド・ジャリの『ユビュ王』に出演してくれということだった。役は小さい役だが、”コティス”という名前もあり、セリフも少しだがあるという。その上配役表に私の名も載り、ポスターも刷って、それにも私の名は載るという。劇場はモンパルナスの一流の劇場レカミエ座。

 ヴィクトールの名は、この大学の天才的な先輩としても、又既に彼がバリで上演したガルシア・ロルカの『イェルマ』や、ジャン・ジュネの『女中たち』、カルデロンやアラバルなどの評判で承知していたし、私としてもパリで役者として出演するのは五本目にもなるし、このトゥクマン出身の貧相な男のただならぬ豹のような目付と、全身がかもし出す何とも云えない淋しげな詩情のようなものに、一目で惚れ込んで、一も二も無く出演を引き受けた。


 コンパニー・ヴィクトール・ガルシアは完璧な国際旅団だった。劇中私と一緒に行動する “ジロン"は、アルゼンチン出身で後に大演出家になるジェローム・サヴァリーの奥さんの、小女のイルシア、ピール”は北イタリア、アルプス地方出身の超小女のヴェロニカ、私が芝居でからむ”ルールス”(熊)をやる男は、オランダとインドネシアの混血の190cmの大男のリュック、あとはイギリス、ドイツ、イスラエルなどなど国籍は十カ国に及ぶ一座になった。私はその中でトルコ人のメメットを入れなければ只一人のアジア人。でもイルシアは先住民の血が入っているらしい顔立ちと体型で、身長は155cm位だろう。中でも見かけ上異様なのは主役のユビュおやじのドゥタ・セックで、セネガル人だ。この男はこの公演の目玉で、アフリカ人といっても様々な黒のグラデーションのある中で、漆黒の肌を持ち、雷鳴の様に轟く声が観客を圧倒するので名のある、セネガルの国民的俳優、パリでも売れた役者である。

 ここに及んでヴィクトールの意図は判った。舞台上に「グロテスク」な景色が欲しいのである。例えばイルシア、ヴェロニカと同じく160cmの小男である私は、身長190cmのリュックが斜めに立って構える右足の先から肩までチョコチョコチョコっと駆け登って右肩にチョコンと座る。 ヴェロニカは左肩に同じ様に駆け登る。イルシアはもう登れないと周りをグルグル回って泣く。という風に私たちは完全に風景だ。

 そもそもこの戯曲はジャリが15歳の時、嫌いな高校の教師をからかう為に、卑劣で尊大な”ユビュおやじ像”を創造し、卑劣なアルジョワを痛烈に批判することになった“人形劇"として上演したもの。19世紀の終りの前衛劇だ。 だったらヴィクトールの仕掛けやたくらみは全てが判る。

 それなら衣裳はどうなってるか。「お前の衣裳出来てるよ。」と衣裳も担当し、自分の家を衣裳小道具の製作アトリエに提供しているジェローム・サヴァリーに、ホイと手渡された時驚いた。ひとつかみの生ゴムのかたまりだ。開いてみると、五角形星形の直径50cm位の2枚の生ゴムを張り合わせてくっつけたもので、頭の所だけ穴が開いて、そこを無理矢理開いて中に全身をこじ入れると、星形の角々に手足の先が収まり、首だけ外に出る様になっていて、手足を伸ばせば生ゴムは伸びて、全体に星形になる。「何だこりゃあ(ケスクセクサ)」と、ジェロームにゴムの中から抗議すると、イヒヒヒと笑って、「ヴィクトールの天才的イメージ力さ。」とうそぶいた。

 天才的イメージについて更に云えば、ユビュおやじの衣裳は、何と数百匹の青蛙の生皮を開いで巨大なガウンに全面的に貼り付けたもの。これをまとったセネガル人は正に異様で、黒い漆が輝く様なドゥタ・セックの肌と、ヌメッと光る緑色の肌の色は似合うと云えば絶妙に似合った。

 稽古場はヴィクトールのスペイン語なまりのフランス語の鋭い指示と、それに応える役者達の各国語なまりのフランス語のセリフ、たまえ殊にはドゥタ・セックのアフリカなまりのフランス語が行き交って大混乱。その中で演出助手のドミニックと、”ヴァンセスラス王lでキャストに名を連ねているジェローム・サヴァリーの二人だけが真当なフランス人(ジェロームはアルゼンチン出身だが)のフランス語なので、みんなセリフはこの二人に教えを乞うてしのいだ。

 芝居はこんな風に始まった。牛の頭から尻尾までの完全な白骨のまわりに全員が集まって、ムシャムシャ、ペロペロ、ゲップ、ゲロを吐く音、様々な眼の雑音を盛大に立てている。それを上からサスペンション・ライト一本がアンバーで徐々に照らし出す。と、その中の一人、蛙の衣をまとったセネガル人のドゥタ・セックがゆっくり立ち上って、一言、雷のような声で大声を発する。

「メールドー」(ウンコ、糞)

この一声から、卑語俗語洪水のようなユビュおやじのセリフが雷鳴のように続き、芝居はめくるめくようなテンポで廻りだす。はずだった。

 一点、ヴィクトールの計算外だったのは、ドゥタの怠惰だった。アフリカ人特有の怠惰で、セリフを覚えなかった。重要を長ゼリフを途中で忘れるのは勿論、次のシーンのキッカケのセリフも忘れてみんなを困らせた。

 とに角初日は開いた。批評は散々だった。 ヴィクトールの演出こそ、そこそこ好評だったが役者たち全員のなまりのせいで、ジャリの文体は三割しか客に届かない。ユビュおやじがかくもアフリカのローカリティを持っているのを、ジャリ自身は決して許さないだろう。等々々。ヴィクトールは歯ぎしりし、爪を噛み、でも決して役者たちを責めなかった。

「なまりは計算済だ。全ては俺の責任だ。まあ見てろ。今に分かる。今に“ガルシア”と云えばガルシア・ロルカじゃなく、ヴィクトール・ガルシアのことだという時代が必ず来る。」

 その後すぐヴィクトールはドゥダ・セックをクビにした。ディジョンへの旅公演2日の稽古の時、ドゥタが平然と稽古に1時間以上も遅刻して来てヴィクトールは遂に爆発した。

「こんなにみんなを待たして何だと思ってる。お前の為の稽古じゃないか!サロー!コション!」

 ドゥタは追放され、ディジョンの公演はヴィクトールがユビュおやじをセリフ無しで演じ、セリフはマイクを使ってジェローム・サヴァリーが台本を読むという、いわば日本の文楽方式でやって、芝居は全体流れる様に進行し、公演は観客に大受けした。

『ユビュ王』のギャラとして、終った時私は制作を兼ねているドミニックから百フラン(当時7,300円)受け取った。ギャラを貰えるとは夢にも思っていなかったので、大金に私は驚喜した。


 一時的にではあれ、パリではヴィクトール時代があった。1979年、パリ、シャイヨーの国立民衆劇場で、ヴィクトールが構成演出した、モロッコの伝説を題材にした大作『ギル・ガメッシュ』の破格の大成功がそれを可能にした。この成功は、丁度その頃東京帝劇で蜷川幸雄演出の『近松心中物語』を上演していた私の耳にも聞こえてきた。私はヴィクトールの成功を心から喜んだ。すぐにもパリに飛んで“マール”(葡萄酒のしぼりかすを原料にした蒸留酒)で乾杯し、『ギル・ガメッシュ』を見て、私の『近松心中物語』のプロデューサーとしての成功も聞いて欲しかった。

 でも彼の成功は長続きしなかった。彼が47歳で唐突に死んだからだ。

 明らかに“マール”の呑み過ぎだった。食事もロクにせず、毎日“マール”を呑んでいた。怒るにつけ、喜ぶにつけ、ウォッカよりも強そうなこの酒をたて続けに6杯も7杯も呷っていた。それは同じように成功を切望しながら“アプサン"を呷って自滅して行った19世紀の若い画家たちの姿を見るようだった。

 47歳は早過ぎる。成功の絶頂と共に死んで行ったヴィクトールを想うと、やりきれない。

 もう10年長生きしていたら、71年にアラバルの『建築家とアッシリアの皇帝』でロンドンで成功したようにニューヨークを征服し、ピーター・ブルックのような世界的演出家になっていたことは疑いない。

 『ギル・ガメッシュ』の上演時、ヴィクトールとブルックは二人で飲み交しながら、

「一番偉大なのは君だ、ヴィクトール!」

「いや一番偉大なのはあんただ、ピーター!」

と、明け方まで互いに繰り返していたと、これは『ギル・ガメッシュ』のプロデューサー、旧知のアンドレ・ルイ・ペリネッティから後に聞いた。


 ヴィクトールには私的に借りが出来た。それは私の人生の将来の進路についてである。

 彼の演劇についての信念である“ユニヴァーサリズム”には、私は自身すでに思う所あってのことで、深く影響を受けた。がその頃私は未だ演劇に於て自分が何の役割を果せるのか、パリに居残って役者をやるか、日本に帰ってオペラ又は演劇の演出家になるか、或はプロデューサーを職とするか、全く迷っていた。

 菊田一夫は、パリ滞在中名物の焼栗をぼりぼりとかじりながら、早く帰って来て、東宝演劇部でプロデューサーをやりなさい、と云ってくれたし、東和映画社長の川喜多長政氏は、自分の時代は特に戦前日本人の民度がどうしようもなく低かったから、それを上げ日本人の頭をやわらかくする為にああいうヨーロッパの映画を日本に入れる仕事をした。しかし君の時代、これからは、日本の文化を外に出す仕事をし給え。と東宝パリ事務所の絨毯にあぐらをかいてバーボンを傾けながら励ましてくれた。

 そういう時ヴィクトールと二人で長く話す機会があった。

 『ユビュ王』が終って少し経ったある日の夕刻、私は住家のすぐ後ろのサンタンドレ・デ・ザール街を歩いてサンジェルマン大通りのダントンの角に出た所でヴィクトールにばった出会った。憂鬱そうだったが、日はいつものジャガーの目だった。

「サリュタダオ。俺にマールを1杯おごる金あるかい。」

「サリュヴィクトール、3杯か4杯おごれるよ。」

「行こう。」

二人で大通りを渡り、向い側、ダントンの彫像の脇の”カフェ・ダントン”に入った。

『ユビュ王』にまつわる四方山話の後、私は突然四歳上の兄貴のようなヴィクトールに聞いてみる気になった。

「ヴィクトール、俺芝居の世界で生きることになると思うんだけど、何やったらいいだろう。」

ヴィクトールは3杯目のマールを呻りながら、ジャガーの目で私の目をじっと見つめた。

「タダオ、お前者は向いてない。パリでその身体でアジア人でといや一定の役所はあるだろう。でもそれは召使の役と端役だ。大きな役は永遠に来ない。それにお前、頭がいつも冷めてる。お前は心で芝居するより頭で論理でやる方だ。役者は向いてない。演出家になっても同じ事だ。演出家は論理も必要だが情熱はもっと必要だ。 お前には情緒的カリスマが無い。役者は付いて来ない。

 タダオ、お前はプロデューサーになれ。プロデューサーがぴったりだ。芸術的感性があって頭がクールなお前こそ俺達が待っているプロデューサーなんだ。 ……」

 ヴィクトールのスペイン語なまりの雄弁は滔滔と続いた。ヴィクトールは意外と三島由紀夫に詳しく『近代能楽集』をいつか演出したいと言った。私は心から私の手でそれを上演したいと思った。

 私が遂に懐具合が心配になってマールをストップする迄、私の運命を決めた話合いは続いた。ヴィクトールは珍しく大いに笑い、私はパリでの青春の彷徨が終り仕事を始める時が来たと感じた。そして東宝でプロデューサーになることに腹を決めた。

 菊田一夫、川喜多長政両巨人は確かに私の行く手を指し示した。 そこで私の背中をドンと押したのはヴィクトール・ガルシアだ。

 帰りがけ酔ったヴィクトールの腕を取って渡るサンジェルマン大通りは、いつもと違う景色に見えた。そして二人でユパンキのルナ・トゥクマーナ(トゥクマンの月)を口ずさみながらサンタンドレ・デ・ザール街の路地へ入って行った。

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