中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

山田五十鈴 どっちにしても怖い顔

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(17)ー(悲劇喜劇2020年7月)

 「中根さん 今度の芝居はね、私、大震災に会ったと思ってあきらめることにしましたから。いえ私はひと通りのことはシゲさんと一緒にキチンとやりますけどね、アハハハアー。」

 初日の入りの楽屋口でアッケラカンとこんなことを言われたら、プロデューサーは何と挨拶を返したらいいのだろう。私は大儀そうにゆっくりとエレベーターに向かって行く山田さんの後姿を目で追いながら絶句したままだった。

 帝劇の芝居「夢は巴里か倫か」でのことである。川上音二郎と貞奴を森繁久彌と山田五十鈴でやったこの芝居は脚本のことで大もめにもめた。私のせいではない。前任の津村ブロデューサーが、芸術座とかけもちをしていて、こなし切れず、作家・演出家(木村光一)も役者も全部決まった状態で

私に丸投げしたのだ。私は東宝の社員だったから、業務命令でいやも応もなく引き受けさせられた。

 作者は東宝演劇部所属作家のY氏で、いささか荷が重かったのか、どうにもこうにもという本が出来て来て、例の如く書き直す時間は無し、舞台稽古になだれ込んで、現場は徹夜の連続。 森繁さんは舞台稽古中の深夜に私と木村光一を楽屋に呼びつけて当り散らすという地獄絵図になった。「ワシら役者はねえ、今月8万人の客の前に立つんだよ、それを分っとるのか。」

 その挙句の初日の楽屋口である。私としても云い訳の仕様がない。それにしても大震災は参った。勿論東日本大震災より遙か昔の話であるが、山田さんは関東大震災も東京大空襲も知っている。今度の芝居はそんなものか。

 冒頭のセリフの時の山田さんは怖かった。口元は笑いをたたえていたが、目は私を射竦める様に鋭く、有無を言わせぬ目だった。

 顔の下半分も怖くなる様な真の恐ろしい顔を、山田さんが芸の上で以外の顔で見せることはめったに無かったが、その逆鱗に触れた誰かを拒否し追放する時の山田さんは怖かった。それが役者の誰かであれ、作家の誰かであれ、長い間出入りしたマネージャーの類いであれ、それこそ顔色も変えずに、ついでの様に付合いを止めたことを宣言した。

「ああそれから某さんねえ、あの人私今後関係ありませんから。あなたも相手にしないで下さい。」

 そして全く顔色を変えず、フイと別の話題に移る。いつもゆったりとした余裕の笑顔で。

 山田さんの芝居は演技というよりあくまで芸であった。それを思うとき、付人の京ちゃんから聞いた話は興味深い。山田さんはライヴァルとして見た時、杉村春子さんは怖くない、水谷八重子さん(先代)も怖くない、只京マチ子さんは怖い。というのだ。

 矢張り京ちゃんから聞いたのだが、山田さんと京ちゃんと2人で帝国ホテルに泊まっていた時、明け方4時頃の暗い中、バサッバサッという異様な物音に京ちゃんが目を覚ますと、音の源は山田さんで、暗がりの中を衣装の打掛けを捌く稽古を独りでしている物音だったとのこと。その時の薄闇の中の山田さんの顔の恐ろしさに京ちゃんは毛布をかぶって震えていたという。

 芸人の精進がどうの、芸の厳しさがどうのと、人は手軽に云々するが、私は山田さん程妥協無く、孤独にそれを人知れず追求していた役者を他に知らない。

 「たぬき」という山田さん主演の芝居が芸術座で大当りをした。私はプロデューサーを務めた。この芝居のプロデューサーだったことを私は今でも誇りにしている。

 「たぬき」というのは明治から大正にかけて寄席の三味線俗曲の名人として知られた立花家橘之助を劇化したもので、“たぬき”は劇中十分間に渉って山田さんが三味線を演奏し且つ唄う曲目の名でもある。

 芝居も、劇場全く1席の空席も無く、東宝の重役が何とかどうにかしろと云っても1枚もチケットが無いという異常な大当りであったが、この劇中のたぬき”の10分間に及ぶ演奏の迫力無しにはこの大当りは語れない。

 私はこの場になると監事室に入って必ずこの10分間の演奏を毎日確認した。

 山田さんはこの場の演奏が終って引っ込んで来ると、精魂尽きた様に三味線を重たげにしかし必ず自分で抱えて、どったどったと足を引きずる様な独特な歩き方で楽屋への廊下を歩いて来る。

 そうした或る日、私は監事室を出た所で引っ込んで来る山田さんと鉢合せした。ねぎらいの言葉を1言2言口にしながら、ふと山田さんの手にした三味線に目が行って、私は吾が目を疑った。三味線の糸が三弦とも真赤なのである。更に棹まで全体に何やら赤く光っている。 いぶかって目を近づけると、山田さんはニヤリと凄い顔をして笑い、左手の指を拡げて私に見せた。驚愕した。血だった。左手の指も、三味線の糸も、血に染まっていた。

「切っちゃったんですよ。指を、糸で、」

 10分間の演奏である。指の出血にしては大量だ。何より演奏しながらのその痛みを思うと私はあわてた。

「痛かったでしょう。夜の部は医者を呼んで痛み止めでも打ってもらっては......。」

「いりません!噂になると嫌ですし、三味線の弾きに障りがあってもいけません。自分でどうにもしますから。」

 そこで山田さんはとりわけの厳しい顔になった。 能面のなにかの様な顔だ。私は恐怖を覚えた。

「中根さん、この事はどうぞどこの誰にも云わないで下さい。演出部にも云わないで下さい。 恥ずかしい事ですから。私が未熟なんです。」

恐ろしい顔のままそう命じると私を押し退けるようにして楽屋へ歩いて行った。その後姿は肩を落とし、三味線を重たげに抱えて、魂の抜けた様だった。

 しかし楽屋に行くと人が変った様になるのもこの人の特技だった。

 妙なことに凝る癖があった。世間で紅茶キノコが流行ると凝りに凝って芝居にはいつも絶やさず、訪問する客にもすすめ、付人の京ちゃんは一升瓶に仕込んだ紅茶キノコを大事そうに抱えて、小柄な人だったから自分の身に余る様な一升瓶と、大柄な山田さんの後でヨチヨチと付き従っているのが可笑しかった。

 又一時期大いに凝っていたのが、焼酎のミルク割りで、これを、終演するや楽屋でガブガブとやり、周りの人にもさあ呑めやれ呑め身体に良いからと無理強いにすすめた。それはいいとして、その身体に良いからと固く信じているのが困ったものだった。

 金原亭馬の助師匠は温和な渋い落語家で、この「たぬき」の公演にも渋い落語家の役所で出ていたが、この頃身体の調子が悪いと、出番が終ると楽屋で横になってばかり居た。

 山田さんはそれが気になると、居ても立っても居られず、たちまちミルクの焼酎割り、山田さん言う所の”ミル酎”を強力にすすめた。

「馬さんこれね、ミル酎、これが身体にいいのよ。どうぞお呑みなさいな、いえミルクだから。身体にいいから。」

「いえ一寸工合が悪いんで、私あんまり酒は…」

「いえ、それがミルク割りだから、ほんとに身体にいいんですよ。お呑みなさいな。ダーッと。ね。」

 いやがる馬さんに無理強いミル酎を何かませてしまった。

翌日私は山田さんの所へ注射を打ちに通って来る看護婦さんに、馬さんを着て貰った。

 看護婦さんは馬さんの瞼を見るなり顔色を変えて私にささやいた。

「これはすぐ病院へ行った方がいいかも。」

 その翌日私は馬さんに付添って大きな病院へ行った。担当の医者は、色々な検査の後に、写真を見ながら事も無げに言った。

「これはもう末期の肝臓癌で、周りにも転移してるし、手の打ちようありませんね。アト3ヵ月位ですか。」

 愕然。帰りの車の中で私は馬さんの顔を見られなかった。帰って馬さんは翌日入院、代演は宮口精二と決め、一門の志ん朝さんにも話して、最後に終演後山田さんの楽屋に行って次第を話した。山田さんが最初に口だったのは、“ミル酎”の事だった。

「嫌だ、私、馬さんにミル酎呑ましちゃった。身体に良かったかしらねえ。」

 山田さんが本当に失敗した、という顔をしたのを初めて見た。

 馬さんは3ヵ月後に矢張り亡くなった。

 山田さんは芸術祭の文部大臣賞を獲得して、「たぬき」は2ヵ月の公演を終え、狂熱的な大入りを記録した。 山田さんの“たぬき”は巷の大評判となり、テレビの出演や録画が相次いで一種の社会現象となった。私は、こういう芝居をやっている限り、歌舞伎や新劇やミュージカルに対し、我々は存在意義を失っていないと思った。

 空前の大ヒットの故に「たぬき」は大阪にも売れて、我々スタッフはその頃精神的余裕も出来て、大阪滞在を楽しんだ。

 山田さんの指はもうタコが出来る位になっていたのだろう。別段の事故は起きなかった。山田さんは毎日御機嫌で芝居をやるのが楽しくて仕様が無いという様子、みんなも古志ん朝や江戸屋猫八など寄席系の人々が出演しているからか、明るく楽しく上機嫌で、一座はいつも洒落や笑いに彩られてその日が始まるのだった。

 山田さんはこの手の、誰と誰が妖しいとか昨夜ホテルへ2人で入ったのを誰が見かけたとか、そういう話が大好きで、いつも身を乗り出して詳しく聞いては両手を打って大笑いしていたし、夜酒の席になると猥談も好きで、時には自らの経験をネタにして、ここに書けない様な用語を使い、自分で大笑いする時もあった。

 私は大阪で何回も山田さんに晩飯を御馳走になった。いつもとびきりの笑顔で舞台事務所に誘いに来た。終演後衣裳化粧そのまま舞台から引っ込んで来たその足で舞台事務所に寄るので、私はいつも登場人物の橘之助に誘われている様な錯覚を覚えた。

「中根さあん、今日は少し滋養を取りに行きませんか。」

私は山田さんのこういう古風な物言い、滋養を取るとか、”含水炭素”を食べると太っていけないんですの、とかが大好きだ。そういう時の山田さんは、人を魅了せずに措かない笑顔が付いている。

 その日も滋養を付けましょうの日だった。私は何の警戒心抱かずに、焼肉でも食べるのかしらと思って付いて行った。

 道頓堀を少し歩いて裏手にある小体な店に入ろうとした時、気が付いた。しまった、お好み焼きだ!

私は大阪の食べ物ではたこ焼きと並んでお好み焼きが嫌いである。 それでもたこ焼きの方は殆どアレルギーで呑み込んだら吐いてしまうので、死んだ気で断わることも出来るのだが、お好み焼きは微妙である。 大嫌いだが死んだ気で食べられないことも無い。今更ここまで来て、上機嫌の山田さんに、私お好み焼きがきらいでして、なんぞ言えない。などと思っているうちに、もう店の中、山田さん自身に椅子を勧められてアララと云う間にモーロー然と坐ってしまった。

 お好み焼きの、半焼けの粉のニチャニチャした舌触りを思うと、今から走って逃げたくなるが、ここは天下の山田さんに夕食を誘われて応じたのは私。私はプロデューサーだ。なんのお好み焼きの1枚くらい、食って死ぬ訳でもないだろうと、腹をくくった。生憎今日のメンツは山田さんと私と付人の京ちゃんの3人連れ、人にかくれてごまかす訳にも行かない。

 という間に何やら怪奇な材料が山運ばれて来る。中でも目立つのは件のメリケン粉の溶いたヤツで、それを見ると腰が浮く。

 山田さんは構わずそれをかきまわし、キャベツのきざんだのをドッとほうり込み、尚も散々にかきまわす。

「今日は私がやりますからね、こう見えて焼くの上手いんですよ。」

 益々御機嫌。 天下の山田五十鈴が手ずから作るお好み焼き、こうなったらもうしょうがない、死んだ気で一枚食ってやろうじゃないか。

 お好み焼きは私の思いもかけぬ工程で焼けて行き、最後に山田さんは何とマヨネーズを網の目になる程にかけ廻した。マヨネーズも食えない程ではないが好きではない。私は殆ど泣きそうになって山田さんの手許を固唾を呑んで見つめていた。

「出来ましたよお、美味そうでしょ。」

掛声と共に私の巨大な皿の上にそのブツがドサと抛り投げられた。

 私は言葉を失った。お好み焼きは私の皿より大きくて完全に皿を隠し、端の方は周囲に垂れ下がっているではないか。

 えっこれを食うのか、仕方がない、私は昔給食で嫌いなものが出た時の要領で、出来る限りのスピードで口に入れるとは呑み込むという作業をやることにした。半分位まで行くともう顔は冷汗ビッショリ、本当に死ぬか吐くかという思いで全部を異常な速さで食い終った時は、殆ど痴呆状態に陥った。

 忘れていた。山田さんは、と見ると、一生懸命2枚を焼いていてもう完成間近だ。何やら笑みを浮かべながら鼻歌まじりにやっている。余程に機嫌がいい。ああ全部食えて良かったとお礼を云おうとした所で2枚目が出来上がった。御自分で食べるのか京ちゃんに行くのかと見る間に、山田さんはヘラでお好み焼きを持ち上げ、アッと云う間も無く、私のお皿にドサと3枚目を抛った。私は事態が呑み込めず、数十秒沈黙したままだった。

 山田さんは満面にとびきりの笑顔で云った。

「中根さん、よっぽど好きなのね、凄いスピードで召し上って。もう1枚是非どーぞ。」

 私は失神寸前だったが、結果としてもう1枚を食ったことだけ記しておく。

 怖い顔もとびきりの笑顔も、どちらも山田さんの極端な2つの顔だが、どっちにしても人に有無を云わさぬ顔であった。

 最後は「八月の鯨」をやりましょうと約束していたのが果せなかった。

#演劇 #プロデューサー  #山田五十鈴