中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

浅香光代 敵も猿もの引っ掻くもの

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(21)ー(悲劇喜劇2021年3月)

 浅香光代さんが亡くなった。浅香さんは竹を割ったような気性の人だと聞いていた。その通りだった。

 付合いは「にぎにぎ」という劇から始まった。喜劇畑の若手プロデューサーとして歩み始めていた私は、その頃、大劇場では未だ無名の井上ひさしを起用したり、三木のり平を中心に喜劇人を糾合したり、東京の喜劇を再興しようという意図で盛んに喜劇をやっていた。

 この「にぎにぎ」も、丁度新聞を賑わせていた茨城県下の選挙違反の話が、カツオを配って廻って問題となったはいいが、それが告発されて警察に保管されたものが、みな腐ってしまい、その腐ったカツオは証拠として成立するかどうかとか、あまりに田舎の選挙らしく可笑しいので触発され、企画した一本である。 なので配役もいつもの東宝喜劇とは一寸異り、田舎の選挙違反騒動の中心人物に植木等、悪徳田舎政治家に金子信雄、全てを心得たその女房に浅香光代 その他藤岡琢也、園佳也子など、手だれの演技派を集めた、スラップスティックスでない喜劇を目指した。

 当時喜劇作家としてはいささか不調だった小幡治に提案したが、小幡さんは面白がって書いてもいいと意欲を示し、一緒に茨城県下に取材旅行に出かけた。選挙違反の買取に必要な“ブツ”はカツオでなく、その頃プームだった銘石、石の方が重くて笑えるということで石にした。

 なる程取材旅行では茨城方面でも石屋が目立ち、何軒か発び込みで取材したが、一軒の石屋が完全にヤクザ屋さんの経営らしく、出て来たヤクザの若い衆に思い切り怪しまれて、怖い思いをし、危くこちらが喜劇の主人公になる所だった。しかしこの企画の喜劇的要素にヤクザ屋さんがからむのは大いに結構で、これは企画の成立にタメになる経験だった。

 即ち田舎政治家のドンに金子信雄、ヤクザもアゴで使う男まさりのその妻に女剣劇の浅香光代、というのがその旅の間に浮かんだ案で、旅の間に小幡政治に提案、一発で賛同を得た配役である。

 浅香さんは14歳で一座を旗揚げして座になって以来、浅草を本拠に女剣劇で一世を風靡した人で、私も小さい頃から一家で浅草へよく行ったので、浅香光代の名は浅草の原風景のようによく覚えていた。

「にぎにぎ」は”役人の子はにぎにぎよく覚え〟から発想して私が考えた奇妙な題名だが、題名だけで無く宝塚劇場という東宝を代表する

大劇場で、クレージー・キャッツの植木等を主演にして、東宝系大劇場初出演の浅香光代まで、東宝喜劇としては変った顔ぶれの芝居をやるということで期待感が高まり、前売の売れ行きも何時になく好調だった。

 この「にぎにぎ」の頃は女剣劇の人気がすっかり退潮して、浅香と双璧を成した大江美智子共々、女剣劇からは身を引いていた時期だった。だからというのではないが、この75年の前年、74年5月に蜷川幸雄と日生劇場でシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を上演しこの年の5月にも「リア王」をやって、プロデューサーとして意気盛んであった私が、女剣劇という芝居を少し甘く見ていたのは否めない。

 その所為もあって、ポスターが出来上った所で浅香さんの逆鱗に触れた。

 私は役者たちの並び位置、所謂カンバンの浅香さんの位置を、東宝初出演ということもあって、主演の植木等から5、6番目の位置、ベテラン脇役の立原博の並びにしたのだ。これがいけなかった。カンバンは商業演劇の役者にとって命だということに、若輩の私は未だ全く鈍感であった。私が行っていたパリの演劇界では、配役表は殆どの場合アルファベット順、ということもあって、この時私は”カンバン”を実に気軽に作ってしまった。

 カンカンに怒った浅香さんは、自分はこれでは到底納得出来ない、兎に角家に来いという。私はそれでも事態の重大さを認識していなかった。 何の剣劇のオバサンの1人や2人説得出来ないことのあるものか、家に来い?行こうじゃないの。浅草吉原ソープランド街の真只中の家に呑気に向かった。その次頭に浮かんだ流行の歌を、頭の中で唱いながら。

“昔さむらいさんは本気んなってちゃんばらした

今じゃ芝居で女がチャンチャンバラバラ

男はたーまらないよ あっさーりで撫で斬りだよ

二丁拳銃もこれじゃ敵わぬ”

「こんちはー、東宝のプロデューサーの中根です。」

「待ってたよ、どうぞそこへお座んなさい。」

テーブルを隔てて向い側の椅子に座る。見ると本当にこれは怒った顔だ。

 こんな場面に未だ全くれていなかった私は、正論で理屈を言えばいいと思っている。曰く、東宝には東宝での実績によるランク付けがあって、今回の皆さんはみんな東宝の舞台によく出ている人ばかりであること。浅香さんは今国東宝初出演で、カンバンのこの位置はそう悪くはないこと。 云々かんぬん。

「でもねえあんた、これはないよ。あたしは14の年から一座を張ってやって来たんだ。これはないよ。」

「しかし他の人達の立場もありますので......」

見ると浅香さんの膝には、いつの間にやら1匹の手長猿が抱かれている。 浅香さんがペットとして何処にでも連れて歩く、分身のような手長猿で、業界では夙に知られている。よく見れば顔色の悪い、人相の良くない猿で、私は一目でこいつとは仲良くなれないなと思った。余談だが私は猿が嫌いだ。 人間に妙に似ているのが気味が悪い。猿の一団が皆が温泉に浸っていたりする映像を見ると、不潔で身震いがする。

「あたしの立場はどうなるのさ。あたしは看板一番上でしきゃ芝居やったことないんだよ。」

「浅香さんの一座ではそうでしょう。でも今度は植木さんの一座で、芝居は小幡先生の書き下ろしです。

「でもねえ、あたしだって顔ってものがあるんだよ。 立原さんとならびなんて、これはしどいよっ。」

 ドスの効いた胴間声が高くなると共に猿が嫌な目でこっちを睨めた。

「そうは云っても立原さんは実績のある役者です。 浅香さんが並んでおかしいってこたあありません。」

「あんたこりゃどいよっ!」

 大きな声と一緒にテーブルをドンと叩いた。

 浅香さんがテーブルを叩くと、膝の上の手長猿の長い腕が、ケエーという様な変な声と一緒に、私の顔を狙ってニューと伸びて来た。私だって中学時代、3年間講道館に通って柔道に精を出し、講道館少年部にその人ありと知られた身、反射神経には自信がある。ひらりと右に体をそらす躱したが、畜生の腕の速さにいささか遅れをとって、猿の手は私の左肩か背広の胸にかけてボリッと引っ掻き、左の胸ポケットの端をほちけさせた。

 顔をやられなくてよかった。大学時代女子学生たちを騒がせた私のビボーが、あたら猿如きに台無しにされるとこだった。

 猿は引き続きケーケーと妙な声を出して私を威嚇してる積りらしい。やな畜生だ。猿なら猿らしく、“キャッキャッ“と真当な声を出すがいい。私は猿の二の矢に備え、身を七三に構えて、成田屋伝授の”にらみ”でもってハッタと猿を睨め付けた。えて公、来るなら来てみろ、手前の長い腕を4つにヘシ折って、束ねて首からぶる下げてやらあ。

 となった所で浅香さんが無類に優しい声を出した。

「いいんだよ、何とか(名前は忘れた)ちゃん。よしよし。怒らないの。」顔は吹き出すのを抑えた含み笑い。私は気勢を殺がれて、つい七三の構えを解いてしまったが、解くと同時に思った。

 こいつぁ貫禄負けだ。

 でも“カンバン”の件は、浅香さんも愛猿の狼籍で気が収まったのかうやむやになり、結局私は背広の修理代だけで事が済んだ。

 それでも浅香さんは、なかなか私に口を利かなかったが、「にぎにぎ」が開いてしばらくして、浅香さんがセリフの中の、金子さんに「今私がおいしいコーヒーを淹れたげるから」というのを「・・・おいひいコーシー・・・」としか云えず、それをダメ出しした時に、お互い浅草と下谷黒門町の下町ということで話が打ち溶けて、あとは何事もなかった様にさっぱり付き合ってくれた。

 まことに猿のとり持った縁か、竹を割った様な気性の人であった。ああいう伝法な肌合いの人がもう居なくなってしまったのは淋しい。

#演劇 #プロデューサー #浅香光代 #猿