高橋惠子 関根恵子
ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(15)ー(悲劇喜劇2020年3月号)
昔、関根恵子という名でデビューしたのが現在の高橋惠子さんである。結婚して高橋になった。しかしその名が変わったのには、単に結婚というだけ以上の意味があった。更生したのである。文字通り人生に於いて。
初めて本人を見かけたのは大映東京撮影所だった。撮影所の事務所で私は一の宮あつ子さんに台本を届けるべく、ソファーに座って待っていた。と、そこへ一陣の風と共に扉が開いて1人の少女が入ってきた。関根恵子であった。 当時15歳か16歳であったろうか、私はその美しさに呆然自失して、口を開けて見とれたままであった。少女は、何このおじさんという一瞥をくれたきり撮影所のスタッフと2言3言話して、又風のように去って行った。強烈なインパクトだった。 すでに演劇界に身を置いてその時10年。美女といわれる人はもう散々見ていた。しかしその時の関根恵子のような新さと美しさとセクシーさをすべて合わせ持ったような人を他に知らなかった。
それから2、三年、私は蜷川幸雄と出会い、大劇場でシェイクスピアを製作するプロデューサーになっていた。
その時もシェイクスピアの「リア王」を、市川染五郎(現・松本白鸚)の主演で日生劇場で上演することになり、私は"コーディーリアに一も二もなく関根恵子を推した。 蜷川も又興奮して大賛成し、私は出演交渉を進めた。その頃の関根恵子は、若くしてすでに大売れの売れっ子であり、ある映画の全裸の水浴シーンの清潔な美しさが大評判を呼んで、メディアの注目を浴びる新進スターであって、出演交渉はなかなか思う様に進まなかった。マネージャーによると本人は舞台の仕事が初めてということもあって迷っているという。
それじゃ直接会って口説かしてくれと私はマネージャーに頼んだ。 蜷川も一緒だ。蜷川はこの頃未だ有名演出家では無く、業界の一部で、小劇場から商業演劇に東宝が引き抜いた特異な演出家として、注目を集めていたという状態で、無論関根恵子にはそれらの裏事情は全然関係無い。只30代の男二人口を揃えて口説きまくれば、10代の小娘一人説得できないはずも無いと、私達はタカをくくっていた。なにより本人が私達に会いたいと言っているというのだ。いい知らせに違いない。
私は会談の場所に、かつての赤坂のTBS会館の地下のしやぶしゃぶ屋”ざくろ”を選んだ。ざくろ”は新しいビルに今もあるが、当時流行のしゃぶしゃぶ店で、芸能界は勿論、商社などまで利用する大人のパワースポットだ。こういう高級店の雰囲気で、小娘を圧倒しようという作戦。 その為に敢て予算にうるさく、接待の場所にケチ臭い東宝演劇部の意に反してこういう場所を使うのだ。
私と蜷川は定刻より三十分も前にざくろに着いた。かえって蜷川の方がビビッて、「おいいいのかよこんな高い店使って」メニューを見て私もビビっていた。 懐の金が足りるかどうか心配になったのだ。
そうこうするうちに定刻通り関根恵子は颯爽と明るく元気に現われた。あたりの客たちがざわざわとざわつくのが判った。
互いを紹介する間もなく、4人前の肉の大皿が箱ばれた。しゃぶしゃぶの鍋はすでにテーブルの真中で音をたててたぎっている。
「わーすごーい。食べていいですか」恵子ちゃんはいきなり肉をすくい取り鍋にほうり込んだ。 少女の食欲の勢いというものだ。私と蜷川は気を呑まれて肉をつまむのも忘れ、声をかけるのも忘れているうち、恵子ちゃんはどんどん食べ始めた。次から次へ鍋に肉をほうり込み次から次へすくい取って口へ運ぶ。それは腹の空いた練習後の運動選手のような食欲で、見ていて何か神聖なもののようでもあった。
私はしょうがないこの勢いは止められない、仕事の話は食った後にしようと内心思った。それでも、私も蜷川も自分たちの肉に手を出すのを忘れていたというか、あまりのテンボの速さと食欲の見事さ、食いっぷりの良さに見とれて手が出なかったのだ。
結局私たち二人がろくに声もかけないうちに、恵子ちゃんは4人前の肉をペロリと食べ終わった。自分の分と蜷川と私の分とマネージャーの分をである。
食べ終わると同時に恵子ちゃんはいきなり立ち上がった。ペコリと頭を小さく下げて宣言するように言った。
「私、このお仕事、やっぱり止めます!
それは食べ終わって間髪を入れずであった。
そしてくるりと後ろを向くと、声をかける間もなく早足でしゃぶしゃぶ店を出ていってしまった。
男2人がかりで説得も何もあるものか。我々は平謝りにあやまるマネージャーを前に、呆然と座りつくし、後には空の大皿と、そこに確かに数分前まで猛然と肉を食べていた美少女がいた空気感だけが残った。
これが高橋惠子が関根恵子だった時のしゃぶしゃぶ食い逃げ事件の顛末である。
オジサン二人は世にも間抜けな顔をして、とり残されたのだが、翌朝は九時ごろ蜷川に電話した。
「参ったね昨日は、あとどうしようか」
断られることなど全く予期していなかったのだ。
「頭来たからよ、俺さっきうんと肉焼いてから食ってやった」
「朝からよく肉なんぞ食うね、じゃあ俺後の考えとくから一日ちょうだい」
案外浅かったようだ。だがしかし蜷川はこの食い逃げを長い間根に持った。もともとさっぱりしない性格だ。
そして数年後関根恵子は大きな事件を起こした。パルコ劇場の芝居を脱走して、男と海外へ旅に出てしまったのだ。
日本中のメディアが大騒ぎした事件だった。しかし旅先で死ぬつもりだったこの東南アジア行から、幸いにも恵子ちゃんは帰って来た。
私はテレビで見たこの帰国時の空港での関根恵子の態邃を忘れない。水泳選手のように短髪に切り、アゴを上げ、ムネを反らし、山のようにたかった報道陣を見下すように一歩一歩ゆっくり誇りに満ちてタラップを降りてくる姿は、もう牛肉を4人前一気に平らげる、あの関根恵子の片鱗も無く、1人の成長した独立した女がそこにいた。 何かが根本的に変わったのだ。私はその女をなぜか支持する気になった。 私は開根恵子の味方になろうと思った。
それから又年が経った。あの娘は結婚して高橋惠子になり、立派に成熟した女になっているようだったが、仕事は憚るようにあまりせず、その姿を舞台や映像で往年の如く見ることは無かった。
でも、北海道のなんとか郡なんとか町熊牛原野番外地とい本籍地に生れた、あの天然自然の美少女のその後に関心のある人は多かった。
私は機会をうかがっていたが、「近松心中物語」の女主人”梅川”の役の交替の時が来て、私は時ぞ来たれりと蜷川に、高橋惠子の起用を提案した。蜷川は最初こばんだ。
「えー高橋惠子?年とり過ぎてるよー。もっと若々しくしなきゃ!」
直接会っている訳はない。テレビや映画で見る機会もない。 何を元に老け過ぎてるというのだ。
「それにより、あいつ食い逃げしやがったろ」
出た。 それかよ。自分がしゃぶしゃぶ代払った訳でなし、怨念が根深すぎるんじゃないの。私はねばり食い下がった。結局はしぶしぶ了承し、高橋惠子さんの『近松心中物語』出演は実現した。素晴らしい舞台だった。彼女のこれまでの易からぬ人生経験が遊女“梅川”のキャラクターに投影されて、舞台は蜷川も満足する傑作となった。
更にまた何年かが過ぎ『近松心中物語』は又公演を重ね、色々な事情から平幹二朗・富司純子の配役で大阪で公演し、次に東京明治座で公演すると決まっていた初日の十日程前、富司純子が急に出演しない事になった。 切符は売っている。 誰か代役といっても客の納得する人でなければならない。 困惑の末、私は高橋惠子に電話し、強いての出演を懇願した。勿論スケジュールは埋まっていて、映画の撮影の最中だとの事だった。
翌日彼女は電話をくれた。映画をストップして出演してくれると云う。
「大丈夫出られるわ。中楓さんには借りがあるもの」
何の借りだか云わなくとも分かった。
こうして食い逃げの貸借はチャラになった。
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