中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

嵐徳三郎 手間のかかった「徳さん」

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(16)ー(悲劇喜劇2020年5月号)

 大阪の歌舞伎役者嵐徳三郎と知り合ったのは、徳三郎が蜷川幸雄宛に出した一種の毛筆の手紙からだった。 『近松心中物語』 帝劇公演中のことで、蜷川は私にその手紙を読ませた。文中、昨夜の帝劇の観劇が彼にとって特別の体験になったこと、終演後、興奮のあまり堀端をずっと歩き続けたこと、自分もどうしてもこういう芝居に出たいので何か機会があったら必ず口をかけてほしいとのこと、他 『近松心中物語』 が歌舞伎の現代劇化という面から持った意義について、自分が門閥出身でなく大学出のいわゆる”学士俳優”であって、その目から見た 『近松心中物語』 の意味について、めんめんとつづられていた。

 私と蜷川は読みながら、「何だこの人、判ってるじゃないの」「歌舞伎役者の中にこういう反応が出たのはうれしいね」「この人、次の芝居で出しちゃおう」「次はマクベスだね、彼は何にしようか」「女形だそうだし、魔女しかないな」 「そうだ魔女だ、魔女がいい。歌舞伎の女形の魔女だ、決まりだ」「俺、明日松竹に電話する」

 とこんな具合に徳三郎との長い付き合いが始まった。 徳三郎の筆頭魔女は『NINAGAWA-マクベス』の幕開けを、その圧倒的な存在感と声の素晴らしさで飾り、東京公演のみならず、エジンバラにもロンドンにもニューヨークにも行き、その後ずっと各地の外国公『 NINAGAWA-マクベス』の国際的評価を確立するのに大きく寄与した。

 “徳さん”はしかし自死した。病院の6階のテラスから飛び降りて。脳震盪で倒れたあと、その後遺症に悩んでということになっているが、徳さんほどの人が、徳さんほどの役者が、そんなことくらいで自ら死を選ぶだろうか。

 死の二週間ほど前のこと、さんは大阪の病院から私の自宅に電話してきた。私自身も、脳内出血で倒れ左半身麻痺の身となってまだ間もないころだった。しかし聞くところによれば徳さんの状態は私よりずっと良く、当初、裏返りするのもままならなかった私に較べ、見舞いに行った連中を出口まで歩いて見送りに来るほどだったというので、 私は安心していた。

 ところがその電話で徳さんは“死にたい”と云う。「もう駄目です。“他人の振り見て吾が振り直せ”というのがよく分かりましたわ。 中根さんの気持ちよう分かりました。僕もう死にたい思うてます。実際のう思うで、タオル首に巻いて両方の引っぱって死のうとしたのんが、ゲーとなって死ねませんねん」泣いている。私は笑ってしまった。 「徳さん、シャレにならないよ。冗談はおよしなさい。徳さん、僕よりずっとましだそうじゃないか。これから年取って歌舞伎でも年寄りの大役が沢山待ってるんだし、『王女メディア』だってまだまだやって貰わなきゃならないし、ギリシャで『王女メディア』やる話も交渉煮詰まってきてるんだから、徳さん死んでるヒマは無いよ。俺だって左側半分壊れちまったけど、足場の無いギリシャくんだりまで行こうてんだから、徳さん死ぬなんて思っちゃだめよ。お互いがんばろう」

『王女メディア』といえば、私はこの時本気で徳さんのために、徳さんのためだけにギリシャ公演を実現しようとしていた。『王女メディア』は、平幹二朗が病気を理由に『マクベス』『王女メディア』2本立ての、ともに主演のロンドン・ナショナルシアター公演を降り、衣装・小道具を積んだコンデナまでロンドンへ船で送っている途中で、プロデューサーとしての私はこの業界で生き残れるかどうか浮沈の境目の時、徳さんがメディアの代役を引き受けてくれて窮地を救ってもらった大きな惜りがある。

 この「王女メディア」の代役をやってもらうについてもいい加減大変だった。高松の実家に徳さんがいるのを突きとめ、電話をした。最初は「無理」「出来ない」の一点張り。「私みたいな役者がそんな大きい役出来ませんわ」「そんなん無理ですわ」「平さんみたいな人の役やるなんて、私なんかがとても無理ですわ」「ギリシャ悲劇の主役なんて、 そんなん恐ろしうてとても出来ませんわ、どうぞ話が他の人に……」 いくら頼んでも、おだてても、懇願しても、30分も電話でねばっても、ぬらりくらり、うぢうぢ、ぐずぐず、どうしても何を云っても埒があかない。私も必死、人生の分かれ目の時、粘りに粘ったが、遂に切れてしまって大きな声を出した。「分った徳さん、やりたくないのねっ。」そしたら何と徳さんは云った「そらまあ、ほんまのこと言うたら、シメタ思いますけどな」

 私は受話器を持ったまま椅子から落ちた。早く言えよそれを。いつものことだけど、場合が場合だ。ぐじゅぐじゅにもほどがある。

 『王女メディア』 ロンドン公演初日の翌朝、私たちは大勢でホテルの朝食堂に揃い、新聞の批評を待っていた。徳さんは初日公演の数時間前、蜷川が徳さんに吐いた一言を根に持っていた。

「中根さん、僕、 “死ね”言われましたわ」徳さんが閉幕を前に恐怖のあまり「僕、こんなん、もう死んでまうわ」と言ったら、蜷川に一言「そんなら、死ね!」と言われたと。

「そりゃねえ徳さん、 蜷川さんだって怖いからだよ。それを主演の徳さんが怖さをあおるようなこと言うからだよ。 それに“死ね"というのは蜷川さんの“田舎訛り”。“死ね"とか”てめえ、このやろ、馬鹿やろ”とかあの人が言うのは出身の川口弁だよ」「そうですかあ。それでも今から批評でボロクソ云われたら、僕なんか今日中に日本に帰らななりませんでしょ」 「まだそんなこと言って、大丈夫だってば」

 朝刊が各紙いっせいに到着して批評が出揃った。 「何だ徳さんぺタ褒めだよ。大絶賛。これ以上褒めようのないくらい。どの新聞もみんな。日本に帰ることありませんからね」

「ほんまですかあ?僕なんかがそんな。うそでしょう」

「徳さん、もうぐずぐず言いっこなし、いい加減自分を信じましょうよ。徳さんだけでなく僕らの芝居全体が褒められてるんだ」

 こうして徳さんはその年の「ローレンス・オリヴィエ賞」にノミネートされ、僕らと徳さんの『王女メディア』の世界への長い旅が始まった。

 実際、徳さんのメディアは凄かった。鬼気せまると云っていいくらいのものだった。徳さんが手を抜いたり、楽に流したりした芝居を見たことがない。いつどこでもどんな状況でもさんは芝居に手を抜かなかった。細部の指の先まで神経を行きわたらせ完璧に演じた。それはロンドンのナショナル・シアターでも、ヨルダンの僻地のローマ遺跡ジェラーシュの古代劇場で現地の土民相手に公演することになった時も変わらなかった。 ジェラーシュの客のいない客席相手の通し台稽古の時、満々たる月の下での徳さんの芝居は神技に近づき、効果の巨匠、あの人を褒めない本間明さんが、終演後、持ち場から客席の階段を降りてきて、私に、「これは本当の最高傑作じゃないですか」と感に堪えたように言ったのが忘れられない。

 世界での旅の先々で徳さんとは様々なメシを食い、様々な話をしたが、時に話が“学生俳優”(そういう言い方が当時あった)たる自分を決して受け入れない歌舞伎界の因習と、その代表たる歌右衛門が自分の歌舞伎座出演を決して認めないことなどに及び、自分の『王女メディア』 出演が、 門閥でない歌舞伎俳優たちの“希望”になっていることにまで及んだ。

 ”指先“に話が及んだのはそうしたある晩だった。女形たる自分は並の努力では決して認められないと指先にまで神経を使った。座った時に足を小さく見せるため、足袋の中で足指を折りたたみ、折り重ねて、足を小さく見せる工夫をして訓練したこと、手の指も同様、芝居の場ごとに工夫のあることなど。私たちは、へええ、そこまでと感心して聞くばかりであった。

 徳さんはしたたかな人だと思っていた。「シメタ思いますわ」と云われて以来、本当は根はしたたかなのだと思っていた。まさか本当に死ぬ気だったとは思わなかった。死の2週前の電話の時も、徳さん独特のいつものグズグズだと思って真剣に相手にしなかったのが100万回も悔やまれる。自分の”指先”まで支配できない症状が、完全を追及して止むことがなかった役者、嵐徳三郎は、きっと許せなかったのだろう。

 徳さんは宝石が好きだった。海外公演の都度、その地の宝石を記念にと買っていた。何回か付き合ったその買い物の時、長い時間をかけてためつすがめつしていたその額の玉の汗が、店のカウンターのガラスにボトリポトリと落ちては弾けるのを、美しいと思って見ていたのを思い出す。エジプトのカイロ、ハン・ハリーリ市場のことだった。

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