中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

近藤正臣 近ちゃん

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(12)ー(悲劇喜劇2019年9月号)

 “近ちゃん”とみんな呼んでいた。 楽屋裏での話だ。 演出助手も衣装さんもプロデューサーも大道具さんも、みんな近ちゃんが大好きだった。役者にありがちな理不尽な文句を云うことも無く、何だか分からず不機嫌なことも無く、いつも柔らかい笑顔で舞台を真面目につとめる。近ちゃんが座頭の一座だと、いや主役でなくとも主要な役で一座に入っているだけで、一座はもめ事も無く、不和やけんかがあっても近ちゃんが気を遣って、巧みに処理しろまく収めてしまう。彼の居る一座はたいてい楽しいやかな1ヵ月なり2ヵ月なりの千秋楽を迎えるのだ。そういう意味で、彼は稀有の役者だと云とえる。

 という定義が当てはまらない場合も時にはあった。

 ここに1人の若い女の子が居た。なぬ、と色めいてはいけない。若いといってもうんと若くて、彼女はこの頃3才から5才であった。私のアシスタント、 "みさ”の娘で”まな”ちゃんという。 みさとまなは母子家庭であるからみさは仕方なく、まなをよく職場に連れて来た。日曜日など一緒に劇場入りして朝から夜の部の終演まで1日中まなちゃんは劇場の楽屋裏にちょろちょろしていた。3才や4才の女の子は可愛い。みんなが可愛がって、まなちゃんは衣装さんの段ボールや行李の中で寝たり、床山さんの仕事場にチョコンと上がり込んで一緒に何か食べたりした。

 裏方さんに役者達もみんな競ってまなちゃんにお菓子や時にはおにぎりなんかをあげた。まなちゃんはいちいちちゃんとお礼を伝って、お母さんに見せてから食べた。それが又入気を博し、 まなちゃんはいつも何か食べ物を手にしていた。

 すると近ちゃんが出番を控えて通りかかる。 まなちゃんもやっぱり近ちゃんが好きだったから、ニコニコ笑っている。すると、

「おう、旨そうなもん食っとるやないの、何食っとるの。1個くれや」

 まなちゃんの返事も待たずに近ちゃんは彼女の手からお菓子なりおにぎりなりを奪いとる。パクッと自分の口へほうり込むとそのまま急いで舞台の方へ行ってしまう。まなはびっくりして声も出ないで口をあんぐり開けて大好きだったはずの近ちゃんを見送る。泣きはしなかった。しばししてからママを探し、見つけて訴える。

「こんちゃんがおかしとった」

 こういう事案が何度も重なり、まなちゃんはお菓子を持っている時近ちゃんの姿を見ると人影にかくれるようになった。 3才の女の子にとっては大事件だった。

 それが証拠に、今二十一才の華麗な娘に成長したまなは、3才~5才の頃に何度も遭遇した同一犯による同一の犯行をよく覚えていて、「近ちゃんは私のお菓子をとった」といまだに云っている。

 こういう近ちゃんの大人気の無さは幾つになっても変わらないようだ。

 ずっと昔、60年安保の夏、私は京都の撮影所でアルバイトをしていた。その時私は20才、青春の真只中だ。松竹下加茂撮影所で日仏合作映画の通訳の仕事は楽なもので余暇の時間も充分あり、私は20才の京都を存分に楽しんだ。ということはつまりモテたということだ。その頃の私は学習院大学内でも巷でも、美少年で鳴らしていた。今だったらさしずめジャニーズ系でどうとやらというくらいのものだった。

 近ちゃんと何かの雑談から稽古場で、ということはずっと後平成時代になってから、『七人みさき』の時だった。京都の喫茶店の話になった。

「近ちゃんそういえば四条小橋に“ソワレ”という店あったよね」

「あるある今でもある」

「え、今でもあるの。俺あの店にずいぶん入り浸った。シャレた店だったよな」

「何あんたあんな所に女連れ込んで悪いことしとったんか」

「連れ込んでない連れ込んでない。“ソワレ”の女の子と仲良くなった」

「なにい、ソワレの女の子と仲良くなったあ。許さん。許せへん。俺の縄張りうちやないか」

「縄張りって近ちゃん京都の何処の生まれかい」

「何処って三条木屋町や。“ソワレ”は歩いて3分、四条小橋は俺の遊び場や、地元やないか」

「その頃いくつぐらい?」

「十八才かそこらや。その辺一帯ブイブイ云わせとった頃や。 “ソワレ”かてずいぶん行った。そこの女をよおまあ、許さん」

「そりゃまあ悪いことしましたけど、要するに俺が美少年だったから、成り行きで、仕方ないじゃん」

「美少年であんたよう言うわ。俺のその頃に比べたらなんぼのもんじゃ。知らんやろ俺のその頃」

「まあまあ」

 私はプロデューサーといえ素人、近ちゃんはプロの役者だ。そんなにムキになるところが可愛いのだが、翌日なんと近ちゃんは昔の写真を稽古場に持ってきた。若い役者たちにどんなに昔自分が二枚目で売れたかを講釈している。 写真の中には、かの有名な、ピアノの鍵盤の上で素足で踊るシーンもあって、私も付き合い上、そのシーンがどんなに評判になったかみんなに説明した。

 やっと近ちゃんの機嫌は直り、私は自分より近ちゃんの方が若い頃ずっと二枚目だったことを公式に認めた。しかし私の腹の中には、ムズムズしたものが残り、言ってしまった。

「でもねこのちょっと後くらいの頃、もう東宝で仕事してたけど、俺ファンファン(岡田真澄)と競って、勝ったことがある」

「なにい、ファンファンと競って勝ったあ?いい加減なこと言いな。そんなあり得へん。そのファンファンいくつや」

「さあ30才ちょっと過ぎたくらいかしら」

「そんなんファンファン最盛期やないか、あり得へん」

 またムキになる。大人気ない。そっちはプロだろうが。笑ってあしらえばいいではないか。私は近ちゃんがムキになった時の可愛さを見たいがために、わざと挑発していた気味がある。

 この大人気なさはずっと続いて、最近に至っている。

 今は無き“ダイエー”が作った”新神戸オリエンタル劇場”の開場公演を頼まれて、蜷川幸雄演出の『仮名手本忠臣蔵』を3カ月、開場の10月から12月まで、近藤正臣主演で神戸で上演したことがある。

 新神戸駅に接続した建物での上演は、神戸の街中からは離れているし、楽屋は手狭だし、蜷川さんだから出演者は80人強と多いし、第一、3ヵ月と長いし、みんないい加減フラストレーションのたまる公演だった。でも近藤さんは例のごとく一座を率いて颯爽と、あちこちの面倒な役者達には気を配り、30何人もバアサン役で出ている若い女性達にはメシをおごり、大過なく3 ヵ月が過ぎようとした12月の24日、クリスマスイヴの日に私は劇場に居た。近ちゃんに休憩時間の聞いた。

「近ちゃん今晩どうすんの、体空いてるならどっかメシでも食いましょうか」

「せっかくやけどな、今日はイヴや。誰か若い子連れてクリスマスディナーにするから、あんたとのメシはまた今度」

  そらそうだろう、天下の二枚目が、今中年の身とはいえ押し出しも立派な主役の大星由良之助。3 ヵ月も神戸くんだりの劇場に閉じこめられて、40人も居る女の出演者の一人や二人、イヴのディナーに誘われて否やのあろうはずがない。劇場の建物の中にはレストラン街もあるし、今日は深夜営業もしてるだろう。勝手な妄想で、てっきり近ちゃんは素敵な一夜を過ごしたとばかり思って、私はひとりラーメンをすすって東京のかみさんに電話をし、早く寝た。

 その翌朝、ラーメンで空腹を覚えたので、私はいつもは食べない朝飯を食いにホテルの朝食堂へ行った。遅い時間だったが食堂はカップルでほぼ満員状態。ふと見ると近ちゃんがひとりでカップルたちの中に座っている。何やら機嫌が悪そうだ。あの大人気ない近藤正臣のモードに入っている。

 私の顔を見るとホッとしたように尻をずらして隣を開ける。

「おはよございます」

「おはようさん」

 明らかにが悪い。第一昨日の今日だ一人で居るのが異状だ。誰かと二人で居るのをはばかったのか。いやそんな姑息な人ではないはずだ。

「どしたの、ひとりで」

「どしたもこしたもあらへん。まあ聞いてくれるか」

「聞く聞く。どしたのどしたの」

「ゆんべあれからメシ食う相手を何人か口かけてん」

「それでそれで」

「そしたらな、どいつもこいつもみんな断わりよった。先約あるとか何とか理屈つけて。おれが3ヵ月あれだけ手なづけた奴ら全員断わりよった」

「近藤さんでもそういうことあるのかね。ひどい話だ」

「それでな俺ももう大人や、そういうことも世の中あるとあきらめて、一人でメシ食うよりしゃあない。その辺のレストランに行った。行ったらどうや、どの店もどの店もみんな満員ですと言いよって、中をのぞくとどこもここもテーブルにローソクかなんか立てよって客はどいつもみんな2人連れや。俺頭来て、もう今夜はしゃあない、ホテルへ帰ってルームサービスでもとって寝よ、思うて帰った。部屋のメニュー見た。夜のルームサービスいうたら鍋焼きうどん位しかあらへん。電話かけよとしたその時思うた。近藤正臣が、 クリスマスイヴにひとりでルームサービスのうどん食ってると、ホテルの奴に思われるのが情けのうて、うどん2つたのんだ。うどん来てドアをノックした。その時クリスマスイヴの夜に近藤正臣がひとりでルームサービスのうどん2つたのんだいうのんがバレるやろ。 そこで急いでバスルームのお湯出して音立てて、2人いるみたいにして、そいで結局うどん2つ食った。そん時うどん食いながら急に情けのうなって、そんだけ細工してうどんひとりで食ってる自分が無性に情けのうなって、分かるか、なあ分かるか」近ちゃんは実の所私と同じ位奥さん思いの愛妻家で、イヴの夜あたりは東京に電話しない訳がない。その辺りどうなったのかそれもギモンだ。

「そいで今朝になって朝メシ食おう思ってここへ来たら、見てみい、これ見てみい、どいつもこいつも2人連れで目の下隈つくって。女はゆんべのしおれた花束まで持ってる。こいつらみんな全員やりよってん。夜通し朝までな。そやからあんな顔してメシ食っとる。そのまん中にひとりで座ってた俺の気持ち分かるか。 分かるか」

「まあいいじゃない、若いもんたちがああやって夜通し盛り上がって、世のなか平和な証拠だよ。俺達の時代は去ったんだ。大目に見てやんなさいよ」

 私の見当違いの慰めも耳に入らず、近藤正臣の憤慨は止まる所を知らず続いた。

 ムキになると本当に大人気無く、それこそ近藤正臣の可愛気の本質が露になる時だ。

#演劇 #プロデューサー #近藤正臣 #仮名手本忠臣蔵

松重豊 幻のオセロー

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(11)ー(悲劇喜劇2019年5月号)

 この間の暮れも押しつまった時期、松重主演の番組を、2、3本たて続けに観た。 『孤独のグルメ』という評判のテレビ番組の特集だった。松重も売れて食える様に文字通りなったのはよかった、というのが私の第一印象だった。劇中彼はひたすら食っていた。物も言わずにおいしそうに。そういうキャラクターに指定されてのことだろうが、人の良さそうな、大人しそうな中年男を異和感なく演じていた。しかし私はその異和感の無さに異和感をおぼえた。こんなんじゃない、松重という役者はこんな役者じゃ無かったはずだ。幾多のコマーシャルに出て荒稼ぎをし生活も安定したあげく、テレビの対価として役者は摩耗する。そうなった松重のキャラクターに着目して、あの役に起用したテレビのプロデューサーには敬意を表する。 がしかし、彼は本当に良かったのだろうか。売れて、名前も知られ収入も無名だった昔を思えばめくるめく様なものだろう。黙々と幸せそうに旨いものを平らげる彼の横顔を画面にずっと見ていると、余計なお世話だろうが、本当に気になって仕方がない。

 20年以上も昔、松重はニナガワ・スタジオの役者だった。 蜷川に密着したプロデューサーとして、私は当然彼等と付き合いが深かった。将来性のありそうな者も、無さそうな者も、熱心な者もそうでない者も、私は等しく付合った。彼等はみんな若く貧しく腹を空かしていた。わずかなギャラを支払いながら、私はいつも今月何とか食えるか? アパートの家賃は今月払えるか?心の中で良心がうずいていた。いつか、彼等が食い物屋に入って、メニューの右側の値段表を先ず見なくても注文できる様にしてやりたいといつも思っていた。

 そんな中の一人だった松重豊は、しかし一味違っていた。丈高く、しかし背を丸めてはいず、頬は削ぎとった様にこけて、荒々しい大きな声とギラギラ光る飢えた獣の様な目を持っていた。いつも反抗的で粗野なのに、底にデリケートな優しさを秘めた、この者に私は将来期待するものがあった。

 私が思い描いたのは、先ずシェイクスピアの『オセロー』のオセローを何年かしたら松重にやらせることだった。ムーア人の若き将軍オセローはヴェネツィア人にとって異人種だ。松重のその頃の風貌は異人種たるにふさわしい、何処かの騎馬民族の一人か、ジャングルの奥地でか何かを食っている民族の様だったから、充分やっていける。こざかしく頭の回るイヤゴーや美人のデズデモーナとの落差も充分だ。私は数年後に期待し、蜷川幸雄に提案した。蜷川は「そうかー、いけるか、うん」とOKを出した。

 その後は『欲望という名の電車』のスタンレーがいい、などと実現する前から私の松重アイデアは拡がって行った。

 所が松重は突然失踪した。 『近松心中物語』ロンドン公演の稽古中のある日、我々の前から忽然と姿を消したのだ。 私は現場に居なかったが、蜷川のダメ出しに猛然と反発し、翌日から公演を降りて、スタジオもやめてしまったとのこと。

 逆にこういう役者が私は欲しかったのだ。今そのテレビ番組を観ているとそこに居るのは、世間と折り合いを付けて従順に背を丸め、心から幸せそうに口に物を運ぶ中年男だ。しかし私が今更この年齢で松重に何を出来る訳でもない。 彼は売れて幸福なはずだ。 全く余計なお世話だ。役で、演技でやっているのも分かっている。でも惜しい、居なくなった松重が惜しい。若い精悍そのものだった松を心から惜しむ。

 その頃現在の彼の予測させる様な気配は何ひとつ無かった。只現実に毎日腹を空かせ、ろくに飯を食っていないだろうことだけが見てとれた。彼の腹はいつもぺちゃんこに凹んでいたから、稽古中、ありあわせの紐で結んだだけのズボンが足元までズリ落ちて、パンツ一丁の姿になり、稽古場中が大爆笑となったのを思い出すくらいだ。

 飯を食っていないといえば、その時も彼は腹を空かせていたのだろう。JAL機の飛行中の機内でのことだ。 我々は『NINAGAWAマクベス』のロンドン公演でロンドンに向け飛行していた。食事の時間が来て、我々はJAL自慢の機内食を皆食べた。機内食はチマチマと数ばかり沢山あって、味はちっとも旨くない。私はいつも機内ではこれを苦手として、2品3品酒のおつまみに箸を付けると後は寝てしまう。 朝倉摂さんの様に、機内食は絶対に食べず、乗る前に空港で買っておいたお稲荷さんを食べる、という人も居る。

 私はそのフライトでいつもする様に、若い役者達が居るエリアを、食事タイムの後を見はからって見廻った。酔っぱらった奴が居ないか見る為だ。みんな食事が終わってそれなりに満足そうだ。 そう、機内食は若いみんなのいつもの食事より御馳走なのだ。酒を呑み過ぎた者も居ない。その時松重と目が合った。何か言いたそうだ。テーブルの上はきれいに平げてある。

「何だい松重」「いえあの、あの中根さん、これお代わり出来ませんか」「えっ、何、お代わり?丸ごと全部?」「エヘヘエ、はい」

 私は一瞬虚をつかれた。それ迄の人生で色んなことがあったが、機内食を丸ごとお代わりしたいという人にはじめて会った。現在のグルメの松重ではない、野獣時代の松重だ。私は面食らった反面、その時この男を心から愛おしいと思った。

 すぐにスチュワーデス(未だこう呼んでいた)のお姉さんに恐縮しながら頼んでみた。 「あの、お代わり欲しいって男が居るんですが、どうでしょう、数ありますかしら、若いんで足りないらしくて、お願いします」お姉さんはにっこり大きく笑って云ってくれた。 「大丈夫ですよ、予備がありますから。こちらの方ですか」「ええ、この大きい男です。済みません」

 お代わりの機内食はすぐに松重の前に運ばれて来た。彼は大きな身体で全体に覆いかぶさる様に食べ始めた。いい食いっぷりだ。その頃は未だ人の好い中年男が一口一口味わう様な食べ方では無く、若い獣が物にかぶりつく様な食いっぷりだった。私はこの男を矢張り好きになった。

 蜷川幸雄が立って来て云った。「松重、お前お代わりしたんだって。恥ずかしい。わー恥ずかしい。」しきりと恥ずかしがっている。 松重は構わず盛大に食い続けている。何の恥ずかしいことがあるものか。これが本来の松重豊だ。飢えを露わにして野性をかくすな。 松重よ世間と折り合い過ぎるな。

 松重豊よ君は精神迄飢えを無くして満腹したか。ひたすら食べるテレビドラマのヒットに心の底から満足しているのか。若いボクサーの様にハングリーで高貴だった君を忘れないで欲しい。八十の爺の余計なお世話だが、舞台に戻って欲しい。 まだ遅くない。演劇の仕事に帰って来て欲しい。私はまだ、死ぬ前に君のオセローを見たい。

#演劇 #プロデューサー #松重豊 #オセロー #ニナガワスタジオ

若山富三郎 「先生」と云う男

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(10)ー(悲劇喜劇2019年3月号)

 若山さんとは『ノートルダム・ド・パリ』のせむし男クァジモド、 『三文オペラ』の乞食の大将ビーチャムの2本を付合ってもらった。いずれも存在感に於て並居る役者を圧倒する人で、東映のヤクザ映画の印象が強く残るが、もっと情感のあふれる、芸術座あたりで山田五十鈴さんなんかとしんみりした芝居を企画すればよかったと今も思う。

 但しそれに付合うスタッフ達は命の縮む様な思いを何度することになっただろう。何しろ若山さんは自身のことを俺とも僕とも私とも云わず、「先生」と云うのだ。「先生の衣裳はどれだ」「先生はその芝居に出てみるか」てな具合である。初対面の時先ずそれで面食らった。「『三文オペラ』ってオペラか? 先生はオペラは歌えねえ。長唄なら出来るがな」「長唄で結構ですから演ってください」……「何、栗原小巻が決まっている?そうか、先生はやる」 こんなことだったと記憶する。でも「先生の衣裳は……」の時はみんなたいへんだった。写真スタジオにロールス・ロイスで乗りつけ若山さんは東宝のスタッフはみな初対面、いきなり「先生の衣裳はどれだ」と云われて、衣裳さんたちも意味がつかめず、「えーとせんせいの衣裳は…」と役者たちの顔を見まわして右往左往。危機一髪私はピーチャムの衣裳がそろえてあるのを発見して、「先生これですこれです」「そうかいこれかいこれかい」よかった。

 ロールス・ロイスに乗っていたが若山さんはいつも金に困っていた。車も車の販売店から試乗ということで借りて乗り廻しては、しびれを切らした販売店から、”そろそろお買取を”と迫られると、”やっぱりこの車先生は気に入らね

え”と返却するということを繰りかえしていると聞いた。ホテルも同様の手法で長期滞在しては借金したまま別のホテルに引っ越すという手法だった。何しろあの押し出しだ、そんなやり方で済んでいたらしい。

 ある晩深夜に若山さんから電話があった。低い押し殺すような猫撫で声だ。「夜中に済まねえなあ中根、折り入って頼みがあるんだ」「何ですか先生」「あの明日の朝迄に500万円貸してくれ。お前男だろ」 その頃私は家を買う為に

貯金した小金を持っていた。チラとその金が頭をかすめたが、かろうじて踏み止まって答えた。「明日の朝金策をしてからお返事します」

 若山富三郎ほどの男に「お前男だろ」といわれて悪い気にさせない何かを"先生"は持っていた。

 夜が明けて私はマネージャーに電話をし、事の次第を告げた。「中根さん、とんでもない。先生また、だめです、ぜーったい貸しちゃ駄目です、返ってきませんから、ほんとにまた、私の方から言っておきますから忘れてください」

 錯乱したマネージャーの「先生また」の一言が私を目覚めさせた。私は先生に電話せず、先生は私にその日の帝劇で会っても何もなかったかの様に機嫌が良かった。プロの大物だ。

 私は一度勇を鼓して若山さんに聞いたことがある。「先生なんでそんなに借金こさえたんですか?先生は勝さんみたいに銀座で派手に遊んでシャンパンのガブ呑みする訳じゃなし、甘いもん好きの酒は駄目という人が何にそんなに金遣ったんです」 「なべだぁ」「は?」「鍋でだまされた」アメリカから新式の圧力鍋を輸入して日本で大量にさばく、というもうけ話に乗って結局鍋だけ残って金は入らずということになったそう。 新聞グネにもなったこのサギ酷に若山さんは引っかかって何億円損したとのこと。だまされ方までマンガチックだ。「鍋はまだ倉庫にある。要るかい?」 「要りませんそんなもん」この人はどこかに可笑しみを漂わせている。

 そんな人が怒ると怖い。怖いことこの上ない。

 蜷川幸雄と私は『三文オペラ』の時、先生に本気でステッキで殴られそうになった。 ステッキも乞食の親分が持つ極太の棒の様なやつだ。

『三文オペラ』は四層建ての巨大なセットが話題を呼んだが、帝劇の広大な舞台にそのセット、そのまた前の空白の空間に若山さんはポツンとひとり立って「長唄」を歌うのが幕開けだった。舞台稽古で蜷川は舞台空間のスキマの多過ぎる白々しさに、急遽何十人かの乞食の群れをセットと若山さんとの間に入れたのだ。若山さんに何も云わずに。これがいけなかった。 その場が終って劇の客席がまだ暗い中、先生の虎の咆哮の声が囁いた。「蜷川を呼べえ!中根を呼べえ!」飛んで行くとステッキをかまえて突進して来る先生の姿があった。「先生の芝居が保たねえならそう云え! てめえ!」 付き人たちが腰にすがって引き留めようとするのをズルズルと引きずりながらステッキを振り上げて迫って来る。蜷川は私の後ろで直立不動で硬直している。私は逃げてはいけない、と本能的に思った。私も直立不動のまま必死に弁解した。 「いやそうじゃなくて先生、セットがあまりにデカ過ぎるので空間を埋める為に乞食をあそこに……」 もうステッキは届く距離だ。ガンと一発来るのを覚悟して、逆に胸を張って受け止める姿勢になった。止まった。そこで止まった。先生は荒い息と共にステッキを下げた。助かった。蜷川は直立不動のまま終始一言も発せず頭を下げたままだ。

 これは蜷川が悪かった。乞食の群れを入れる前に一言先生に断わりを入れるべきだったのだ、

「ノートルダム・ド・パリ」でのこと。事件は平和に済まなかった。 若山さんはせむし男、エスメラルダを浅丘ルリ子さんがやっていた。そしてエスメラルダを縄付きでしょっぴく牢番の男を若山さんの口利きで座組みに入った、東映ヤクザ路線出身の若山さん弟子筋、面構えも世にも恐ろしい40才くらいの役者がやっていた。Aは物覚えが悪いタチらしく、エスメラルダを縄付きで引きずり出すきっかけを何度となく間違えた。エスメラルダの浅丘さんは、自分はしばられているのだから、自分からきっかけで出る訳にはいかない。どうしてもAが出のきっかけでエスメラルダを引きずり出さねばならない。ところがどうしてもAは出のきっかけがとれず、従って浅丘さんは大事な出のセリフを自分がトチった様になってしまう。スタッフは困り果て、この場のヌキ稽古を行なった。それでもAはきっかけがとれない。私は非常手段をとる事にした。若山さんにのAのトチリをチクルのだ。今日のマチネーの本番でも芝居に差し障りが出た。仕方がない。先生に直接叱られればAも少しはピリッとするだろう。私は楽屋に行ってなるべく若山さんを興奮させない様にAのことをしゃべった。しゃべり終らないうちに若山さんは風呂上がりの裸の腰にタオルを巻いた姿でいきなりスックと立ち上がった。 そのままAの特訓稽古が進行中の舞台に走りだした。ヤバイ。私も後を追った。凄いスピードだ。 若山さんはいきなりんの頭をつかむと舞台に引き倒した。倒す間に顔をすでに2、3発殴っている。「おどりゃー、足腰立たん様にしてやらにゃ分からんのかい!」すでに馬乗りになってAの顔をボコボコに殴っている。 貴ノ岩どころではない。違う時代の出来事で良かった。演出部はみんな真、足がふるえている。ルリ子さんは気持ちが悪くなり、他の役者たちもすでに遠巻きになって逃げ腰だ。尚も殴り続ける若山さんを私はようやくなだめて引き離した。それから楽屋でAは散々に説教された。正座してうなだれるAの腫れあがり変形した顔

と、時々私を盗み見る恨めしそうな目が忘れられない。

 その晩、終演後の九時半を過ぎた頃、楽屋口で若山さんにつかまった。「おう中根、帰るのかい。一寸銀座迄付合わないかい」猫のようにやさしい声だ。昼間のこともあり気が進まなかったが、付き人たちも行ってやってくれとこっちに手を合わせて拝んでいる。銀座?はて若山先生呑めないはずじゃなかったかと思ったが、こっちは酒は嫌いでない方、付合うことにした。日生劇場から銀座方面へ真っすぐのはずが少しずれて歩いて行く。あら、交差点を渡って日劇の前に出た。おかしいな、こんな所にもクラブやバーの類があるのかあるのかしらと思ってると、すぐ前の数寄屋橋デパートに入る。益々面妖なと思うと地下に降りた。地下を百メートルほど歩くと、小さな小さな二間間口程の和風ののれんのかかった店に入った。何と甘いもの屋だ。それも高速地下のデパートのそのまた地下の女子供が買い物ついでに入る様な甘味店だ。「ここはなあ、汁粉がうまいんだ。 中根、汁粉は好きか」好きかったってこんな所へ入っちまって好きかもないもんだ。こっちはてっきり所謂銀座のバーへ連れてってくれるとさもしい早チリをしたのが悪かった。しょうがないとことん付合いますさ先生。「僕は所天をいただきます」「甘いもんはいやか」 せめて所天で勘弁してくださいよ。なんということだろう。小さな甘いもん屋で女性客の中、先生と私は甘いもんのお替りをした。次は先生汁粉のにあんみつ。 私は所天の次にみつまめ。 「金つばもどうだい」もう気持ちが悪くなってきました。今日はとんだ日だ。先生の乱暴狼藉の後に甘味攻め、その落差の激しさに私はついていくのがやっとだった。でも優しい時はとことん優しいのだこの人は。

 それにしても惜しい役者を早死にさせたものだ。死に至らせた原因は糖尿病とのことだった。 若山さんは世間が知っているよりももっともっと多様な可能性を持った人だった。私は『三文オペラ』の後、芸術座で若山さんと勝新太郎の兄弟二人の芝居、文楽の太夫と三味線の物語をやるべくひそかに企画していたが実らなかった。

 もっとも実っていたら私は二人の間で半死半生、再起不能になっていたかも知れない。

#演劇 #プロデューサー #若山富三郎 #ノートルダムドパリ #三文オペラ

巨匠吉井澄雄の失敗

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(8)ー(悲劇喜劇2019年1月号)

 吉井さんは舞台照明の世界にかくれもない、うつ然たる大家・巨匠であって、その独り群を抜いてそびえ立っている。

 私は蜷川幸雄と仕事を初めた最初の『ロミオとジュリエット』の時、衣裳デザイナーの小峯リリーさんに紹介されて仕事を依頼した。以来長きにわたって『王女メディア』『NINAGAWA・マクベス』『近松心中物語』など数多くの蜷川の傑作の成立にたずさわり、というより蜷川演出の成立の中核をなす役割を果たされた。まことに日本の舞台照明は吉井以前と以後に於て、画然たる相異を示しているのである。

 蜷川幸雄は稽古場でよく、行き詰まって演出がうまくいかず、インスタレーションが成り立たない時、吉井さんに助けを求めていた。「ねえ吉井さーん、何かうまい手はない。ここは照明で何とかして欲しいんだよ。」「ようがす、やってみましょう。舞台稽古でやってみるから。」約束通り舞台稽古の時、明りが入ると世界は一変し、舞台は魔術に満たされた。『近松心中物語』の心中シーンが良い例である。 何も無舞台は吹きまくる猛吹雪と照明だけで、20世紀のうちでも指折りの名舞台となった。

 吉井さんはオペラなどの照明でよく海外でも仕事していたので、『王女メディア』をニューヨークで上演する事になった時、劇場はマンハッタンのセントラル・パークの中、ギリシア式劇場を模した野外劇場「デラコート・シアター」となったので、一も二もなく光の巨匠吉井さんの手腕にあらためてすがることにした。

 吉井さんはその時も他の海外での仕事と重なっているらしく、スケジュール調整を危ぶんだが、何とか明り合わせの夜ぎりぎりでニューヨーク着ということで間に合うことになった。

 当日夕闇せまる中、吉井さんは颯爽と現れた。「時差がひどいからお疲れでしょう」「いやいや、お呼びとあらばこのくらいの道のりは何のこともありません。さあ始めやしょうか」あたりを払う吉井さんのたたずまいに皆々圧倒され、多かれ少なかれ吉井さんの手下である照明さん・オペレーター達にさっと緊張が走った。つられてアメリカ人のスタッフ達もスイッチが入る。劇場は一気に臨戦モードに入った。

 『王女メディア』の幕明きは、梵鐘の音と共に2基のかかり火に火が燃え出すと共に始まる。野外公演の場合、かがり火は黒子を着た演出助手の村井が、どっかから調達して来たがガソリン(ケロシン・オイル)を薪にぶっかけて置いたのにポッと火を付けた所から音楽が入る。日の暮れ始めた野外の劇場でこれは仲々いいものだ。しかしこの晩村井は生来のルーズな性格から大きなインシデントの元になるミスをやらかした。ガソリンを入れた酒瓶を舞台監督控室の机の上に放置した。後で考えるとその瓶はジンかウォッカを呑みさした瓶に見えた。中には透明な液体が入っているのだ。村井と違って考え深い私は、それを見てふと危険を感じ、村井に注意した。 「そんな所にそんなものを置いといたら危ねえから下におろして置けよ。」確認しなかったのは私の責任だ。全てはここから始まった。

 長途のフライトに時差も加わって疲れていた吉井さんは、景気付けにアルコールを一杯欲していた。一杯やって眠気を払うというのは吉井さんに限らず、舞台稽古の徹夜の時はよくある話で、その昔の北条秀司や伊藤熹朔など大先生方はよくやっていた。只この時私に酒を出せと一言云ってくれれば良かった。

 私は現場をその瞬間見ていなかった。わずかに遅れて控室に入ると吉井さんはのどをかきむしって苦しんでいた。私は大あわてにあわてて、「ど、ど、どうしたんですか吉井さん!」「これ!これ」言葉にならぬ有様で吉井さんが指さしたのは、件のガソリン入り酒瓶だ。手まねで、飲んだ飲んだ、とやっている。 ウォッカか何かと勘違いして、ガブっと一口やったのだ。大変、たーいへん。ガソリンを呑んだら人体はどうなるのか私は知らない。でもとに角大変だ。 居合わせたアメリカの舞台監督は何とも複雑な顔をして事情を聞き救急車を呼ぶべく電話する。アメリカの救急車は走って来ながら応急処置を指図する。〝出来るだけ多量にミルクを飲ませろ!" ミルクはあるか。あった。舞台監督の夜食用と覚しきミルクを吉井さんは容器いっぱい呑んだ。それから何だ。 "吐け!"という指示。吉井さんはのどに今度は指突っ込んでげえげえやる。でも仲々うまく吐けない。救急車に乗せられた吉井さんと私は夜のセントラル・パークからマンハッタンのどまん中のビル街を突っ走る。何やらかっこいい。アメリカの救急車に乗って私はマンハッタンを突き抜ける。滅多に無い経験が、アメリカのテレビドラマみたいだ。疾走する救急車の窓の外にビル街の色が凄い速さで流れて行く。カッコイイ。こんな映画いつか見たっけ、と言ってる場合じゃない。眼前に寝ている吉井さんはしきりにゲホッゲホッと咳込んでいる。大丈夫だろうか。気管支の方に油が入ってただれると気管支が閉塞して死ぬ場合もあるとか云っていた。牛乳呑んだだけで大丈夫だろか。

 病院らしき所に着いた。吉井さんはトレイに寝かされて廊下をひた走る。 診察室らしい所に着いたが中に入れて貰えない。先客万来でしばらく待てと云われる。待てと云ったってこっちは救急だ。そんな間に気管支が、と思いつつ改めて見廻すと、あたりは凄い景色だった。ここはどうやら救急専門の警察病院、マンハッタン中の事故や事件のホヤホヤの当事者がかつぎ込まれて来るらしい。吉井さんの前にも廊下の片側に寄せられた男が血をポタポタ腹から出して看護婦がそれをガーゼで押さえている。そんなのが何人も順番を待ってい“腹から血“の奴は撃たれたらしい。これぞアメリカの刑事ものコジャックの世界だ。吉井さんはどうなるのだ。気をもんでいると廊下の向うから巨大なオッパイとお尻を突き出した180センチはあろうかという太った黒人の看護婦がノッシノッシとやってきた。「ガソリンを呑んだって奴はこれかい。何だってそんな馬鹿なことを。ガハハハ」私がしどろもどろ状況を説明しようとすると、うるさそうに手を振って、「ウォッカと間違えた? ガハハハ 馬鹿だねえ。 どれお見せ」 武蔵丸に似た看護婦は大きな両手を吉井さんの口に入れ、ガバと上下に引き開けた。懐中電灯で照らして顔を口の中に突っ込む様にのぞき込むと、「大丈夫だよ。 少し赤いようだけど気管支に問題ないだろう。ミルクを呑んだのが良かったかね。まあウォッカよりミルクの方がお似合いだろ。坊や、ガハハハ」大きなお尻をユッサユッサと振りながら怪我人やら看護婦やらで、タイムス・スクエアの様に混難した廊下を去っていった。

 吉井さんはそれきり見捨てられた。 ICUに入るでも、レントゲンやMRIといった器械に入れられるでもない。廊下の物凄い有様の中に放置されたままだ。どうやら急ぐに及ばない患者だと判断されたらしい。実際廊下の状態は野戦病院もかくやという程で、しばらく時が経っても誰も何も云って来ない。話しかけ様にも廊下を走るように行き来する看護婦たちの誰ひとり耳を貸す余裕は無さそうで、第一点滴の器械をかかえて走っているような人に怖くて声もかけられない。

 私は途方に暮れたが、しばらくしてようやく先の武蔵丸が通りかかった。勇気を振ってお伺いを立てる。 「アノ、スイマセン、 この人はどうすれば……」 「おやまあ、まだ居たのかい、帰っていいんだよ。ご覧の通りウチは忙しい。 帰んなさい。でも今晩はウォッカを呑まないようにね。 ガハハ…...

 事件は終った。 私は吉井さんをホテルに送った。道中吉井さんは全然口をきかなかった。マンハッタンの夜景も今度はちっともカッコよく無かった。

 にも拘わらず舞台稽古、照明合わせは吉井さんの弟子や日米のオペレーターたちの奮闘で無事とり行なわれ、仕事に支障は無かった。ニューヨークが朝になった頃、稽古は終りみんなが吉井さんの状態を聞きたがった。

 私は太った看護婦の話だけをした。 そうだ、病院が「刑事コジャック」に実際登場した病院だった。

#演劇 #プロデューサー #吉井澄雄 #舞台照明

辻村寿三郎 ジュサリンという変人

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(8)ー(悲劇喜劇2018年11月号)

 辻村寿三郎さんは天才的な人形作家であると同時に、すぐれた舞台衣裳デザイナーであり製作者である。そのデザイン感覚は単なる衣裳デザインの枠を越えて小道具から舞台全体に及び、私は一時「アート・ディレクター」の名を冠して仕事して貰った。寿三郎さんの場合はデザインを画で、或いはデッサンで職人に渡すだけでなく、衣裳そのものの製作・縫製まで自分でやってしまう上に手縫いなのである。そして優しい愉快な変人であり奇人でもある。一番いい仕事は勿論、蜷川幸雄演出の『王女メディア』の衣裳である。この作品で我々は世界の扉を開き、蜷川が「世界のニナガワ」になる端緒

となったが、この寿三郎さんの美しくも奇怪な衣裳のオリジナリティが、世界を説得したのだった。

 寿三郎さんはよく名前の表記を変えた。古くは「辻村寿三郎」、近年まで「辻村ジュサブロー」、或は「ジュサブロー」。

 そして「『ジュサリン』と呼んで欲しい」と云い出した。さすがに公的表記にはしなかったが、内々みんなジュサリンと呼んだ。奇妙な違和感が可愛いといえば可愛いかった。何しろ坊主頭で和服の着流しだもの、人ごみで「ジュサリン!」と呼ぶと周りの人が振り返った。

 完全に天才肌のその仕事振りに引き換え、ジュサリンはお茶目でもあった。

 蜷川演出のハムレットの舞台稽古で、何十人の貴族達の衣裳がうまく行かなかった。大階段のセットの上の貴族達はに白っぽく、陰影に欠けた。「ヨゴシ」が大幅に必要だった。稽古はストップし、帝劇の広い客席と舞台は地アカリとなって蜷川は怒鳴りまくり、人々は緊張した。 衣裳デザイナー・ジュサリンはタンクトップの様なものを着て、筋肉ムキムキの裸の胸から肩をムキ出しにし、かしこまったフリをし

ていた。蜷川がアイスコーヒーのストローでジュサリンの裸の肩をピシリピシリと叩いた。ピシリ「おじさん。」 ピシリ「ちゃんとやってよ。」

 ジュサリンは衆人の真中で叩かれながら、蜷川をニタリと見て云った。「もっとびっくり!」。

 蜷川は床に倒れて絶句した。ジュサリンは追討をかけた。「ねえ、一緒に住まない?」蜷川は悶絶して稽古は一時中断。皆々何十人分の貴族の白々した衣裳をヨゴス為、帝劇外の歩道に運び出しスプレーをかけたり絵具で汚したり。ジュサリンはウフフフなどと笑いながら涼しい顔でスプレーをシュッシュとやっている。緊迫した舞台稽古の真最中の話だ。

 水の好きな人でもある。矢張り別の舞台稽古のさなかに突然の様に云う。「川の中にもぐってね、水の底から満月のおさんを見上げるときれいよー。」

 実際ジュサリンが仕事にからむと雨が降る。それも機嫌が悪いと特に降るのだ。私は何度も野外公演で苦杯をなめた。築地本願寺での『オイディプス王』の野外公演では、1週間公演日程のうち、3日間まるまるドシャ降りだった。昼過ぎから降り出したから当然客足にひびき、公演は大赤字となった。この時蜷川とジュサリンはかつての蜜月の時代を過ぎ、衣裳の出来のことでひどくもめていた。雨は毎日容赦なく降った。「辻村さんお願いう弁してよ。雨止めて。」「知らないよあたしは。」

 ジュサブロー・カンパニーの人形劇のイタリア・フランス公演に私はついて行った。最初はイタリア中部フィレンツェ近郊のフィエーゾレという町だった。我々が着いた時、そのあたりのトスカーナ地方は未曾有の渇水で大変なことになっていた。水道は時間を決めてしか出ない。農家はお手あげで、教会で毎日のように雨乞いのミサが行なわれるが、効果はゼロで早や2カ月以上。乾いた熱風が吹き荒れて人形芝居

どころではない雰囲気。それでも湿り気たっぷりのジュサブロー人形劇はフィエーゾレの野外ギリシャ劇場で上演の運びとなった。私はイタリアのプロモーター・マリオに、ジュサリンの雨ふり神通力を語って聞かせ、芝居の為には困るけれど、トスカーナ地方の人々には奇蹟となる、降雨の可能性を、半分冗談で無責任にしゃべった。お調子者のマリオは早速それを新聞記者達に得意になってしゃべり、よせよ責任も

てないよと私が云うのに、辻村ジュサプローは雨乞いの奇蹟を現わす聖人のようになってしまった。

 開演の時間がせまり、夕ぐれの空は不思議や曇ってきた。マリオは興奮して走って来て云う。空がおかしい、それにフェデリコ・フェリーニが見に来てくれた。フェリーニが客席に居る!開演30分、人形芝居はしめやかに進行している。と、突然。何とポツリポツリと大粒の雨が降って来たではないか。そして数分後、雨は本格的なドシャ降りとなり、人形芝居は中断。人々は劇場周囲の木陰に走り込む。みんな興奮して嬉しそうだ。 2ヶ月振りだもの。新聞記者達はもっと興奮して、ジュサブロー———大芸術家———超能力者を論じている。フェリーニは雨の中で悪戯っぽい笑いを浮べながら、「真の芸術家には時々こういうことが起こるものだ。」などと新聞記者をからかっている。

 雨は三十分程槍が降る様に続いてから止んで芝居は再開。無事終演となって、フェリーニはジュサリンを抱きしめ賞讃の嵐を浴びせて坊主頭にキスをする。人々は興奮さめやらず異常な状況の中で、一際芸術性の引き立った人形芝居を誉めそやしながら、雨の匂いの残る中を家路について行った。

 翌朝の新聞は大変だった。日本の芸術家が生んだ真の奇蹟。 2ヶ月半振りの雨。シニョール・ジュサブローの滞在をもっと長く。

 ジュサリンは例の如くウフフフと笑いながら「私は知らないわよ、一生懸命人形遣っていたら自然に雨が降って来たんだもん。」 涼しい顔でうそぶいている。

 人々の興奮おさまらぬトスカーナ地方を後に、次の公演地は南仏プロバンス地方のアヴィニョン市。名高いアヴィニョン・フェスティバルに参加するのだ。

 ところがプロバンス地方でも異常気象の状況はトスカーナと全く同じ。渇水状態はトスカーナにも増して3ヶ月に及び、野外公演の多いフェスティバルには逆に幸いするものの、事はすでに行政当局の問題になっていて、一般の生活は勿論ホテル・レストランなどの運営に支障が出ているとの事。街を流れるローヌ川の水かさも減り、ここでも教会は雨乞いミサに人が満ちている。

 ここで張り切ったのが軽薄なイタリア人プロモーター・マリオだ。よせばいいのに記者懇談会のようなのを開いて、フィエーゾレでの雨の1件、ジュサブロー魔人伝説を頰を赤くして吹きまくったのだ。当人は芝居の宣伝の為の話題に考えていたのだろうが、たまらない。フェリーニまで引き合いに出して雨は絶対に降ると請け合ってしまったのだ。ここはイタリアではない。シニックで冷笑的なフランスの記者達に、時の話題として絶好の標的を与えてしまった。 魔力だそうだ。面白い、見てようじゃないか。降らなかったらどうする積りだ。開幕前の各紙には「東洋の魔術」をからかい冷やかす記事であふれた。

 大ごとになってしまった。これはもうジュサリンに真剣に頼み込むよりない。「辻村さんお願い、大変なことになっちやった。これはもう雨降らすよりないよ。」「知らないよ私。」「そんなこと云わないで、人の為にもなることだから。」幸いジュサブロー・カンパニーの公演は市立劇場の中、屋内公演だ。雨の降る降らないは関係ない。我々は気を取り直して公演の仕込みに働いた。

 暗闇の中で照明の仕込みをしていると入口の辺りが騒々しい。何を騒いでいるのかと出てみて外の時計広場を見ると、雨だ!雨が降って来た。強い雨足だ。人々は広場にり出て、みんな上半身裸になって雨を浴びている。久し振りのシャワーだと。雨の中で踊っている人も居る。 さっき休憩時間にジュサリンは1人広場の消火栓に着流しで腰掛けて足をブラブラさせていた。あれがアヤシー。雨は益々強まる。30分も経つと只事でない雨になった。日本の集中豪雨もかくやという猛烈な雨足となり、石造りの広い時計塔広場はたちまち水深5センチ程の湖になる。 水はけは考えられていないのだ。1時間程してフェスティバルのディレクター、ベルナール・フェーヴル=ダルシエ氏が雨中びしょぬれでやって来た。貴族出身の文化省の高級官僚フェーヴル=ダルシエがジュサリンに懸命に真剣に両手を握って頼み込む。「ムッシュー・ジュサブロー、分った、あなたの普通でない力はもう分った。誰ももうあなたのことを嘲笑したりなんかしない。あなたは本当に奇蹟を実現する人だ。しかしフェスティバルは大変なことになった。 法王庁の中庭も石切場もその他の修道院や学校の中庭も、野外の会場のは全部中止です。あなたを馬鹿にした者たちは皆深く後悔しています。どうかこの位で雨を止めて下さい。」ジュサリンはこの上品なディレクターに好意を持っていた。「ベルナールさんがそう云うなら。」この時始めて自分の能力を認めた。 程無く雨は止んだ。この大雨でアヴィニョン市は甚大な被害を受けたが、受けた恩恵の方が大きかった様だ。人々は大きな戦争でも過ぎたかの様に表へ出て雨を祝いあった。批評は芝居に好意的だったが、雨のことは触れていなかった。

 今ジュサリンは広島の病院で病いを養なっている。先頃通り過ぎたあの辺りの豪雨を思うにつけ、ジュサリンの回復を祈るのである。

 ジュサリン、早く回復して機嫌良く人形造りのお針を動かしておくれ、あなたの造った最近作の人形「マリー・アントワネット」は真の天才の傑作だ。あなたの希望通りヴェルサイユ宮殿に飾られる様取り計らうから、一緒にそれを見に行こうよ。

#演劇 #プロデューサー #辻村ジュサブロー #辻村寿三郎 #人形作家

 

 

 

タカラヅカの人々 パリ篇

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(7)ー(悲劇喜劇2018年9月号)

 宝塚の人を書くとなったら、とても一人や二人に焦点を当でて書くことなど出来ない。このひとびとはみんないくつになっても、結婚してもしなくても、やめて引退してもしなくでも、みんな所謂タカラジェンヌのまんまどこかにその気を残していて匂いを消さない。

 私が初めて宝塚に接して、その毒気と云うか、香気に当てられたのはこちらも二十代半ば、所もあろうにフランスはパリで1ヶ月の公演に付き合ってのことだから堪らない。正気に戻るのはその3ヶ月後にパリ留学を打ち切って日本に帰ってからだった。時は1965年、いい時代だった。チェ・ゲバラはヒーローで、ビートルズは人気絶頂だった。私はブランス政府の給費留学生としてパリにもう三年近くも居て、そろそろ里心も付き始めると同時にこのまま一生フランスの演劇界に身を沈めようかとか、あぶない時期に宝塚の52名の日本乙女がやって来たのだ。劇場はレピュブリック広場にした今は無きアルハンブラ劇場。古い劇場でフランスの名のある芸人でここの舞台を踏まなかった人は居ない。ホテルは劇場から1分の所にあり、乙女たちは三人一部屋でギッシリ詰め込まれていたが、私は同じホテルに部屋をとって宿泊した。かくてまるまる1カ月の宝塚との付き合いとなった。

 公演は数少ないマチネーを除き、夜9時に開演 終演は12時である。フランス人は大体夕食をとってからこんな時間に舞台を楽しむのだ。

 この宝塚パリ公演は手伝った私の目から見ても掛値値無く大成功であった。 オペラ座(私はそこで研修していた)のバレエ以外、かったるいレビューのダンスしか見たことのなかったパリの観客は文字通り熱狂した。歌唱では那智わたると主演の真幌志ぶきがアズナヴールのレパートリーを歌って本人よりいい歌になっていると云われ、ダンスでは若かった甲にしきが素晴らしいリズム感と、関節が無いのではないかと云われた柔軟性で、現代ダンスを踊ってブラボーの海となり、何よりも52人の一糸乱れぬ緊迫した舞台が、ショウとも思えぬ程のショウだと好評を博した。宝塚はこの1カ月間のパリ公演で、パリの芸能の歴史に記念碑的な足跡を残したと云っても過言ではない。

 私のこの公演での役割は、すでに所属していた東宝演劇部からの口利きで、通訳兼舞台の雑用係、舞台監督助手だった。しかしことは劇場内だけではとても済まない。一応フランス語が達者ということで生徒達のテレビ出演、新聞雑誌のインタビュー、神戸と姉妹都市のマルセイユ市への親善訪間などあらゆる公的行事、そして一番大変なのが生徒達の夜の私的バリ案内だった。何しろ毎晩十二時終演、それから大急ぎで化粧を落して着替えてったって真夜中は真夜中だ。 いくら花のパリと張り切っても開いてるレストランにしろクラブにしろ限りがある。 「清く正しく美しく」なんだからあんまりあやしげな界隈や店には連れてけない。事故でもあったら大変だ。私は毎晩神経を張りつめてエスコートした。毎晩?そう毎晩なのだ。相手は代わっても毎晩だ。この夜のツアーは人気を博し、遂に四・五日前から私の夜の身柄は申し込みとなった。只でさえ私の人気はあった。東宝の社員、フランス語ペラペラ、若い、背は低いが美少年。慣れぬ外国でたよりにされない訳がない。しかし物事はそううまく行くとは限らないのであって、公演半ばにならぬうちに、当時私が付合っていたドイツ人のカノジョが、心配のあまりパリに来てしまった。当然同じホテルに泊まるし、劇場にも来るし、来た翌日にはもう殆どの生徒にこの事実は知れ渡るところとなり、私は開き直って公然の事実として、このやたらと目立つ金髪のカノジョを腕を組んで連れ歩くこととなった。 結果宝塚と私とのあったかも知れぬほのかな恋は消滅した。

 それはともかくある夜のこと、甲にしき、花久仁子の二名夜のガイド当番として案内することになった。二人の注文は、食事は公演前に済ましたからもういい、どっか日本に無いような珍しい面白いとこへ連れてけ、ということ。 私は迷ったが決めた。よく東宝のパリ訪問客などを案内して喜ばれる、パリのかくれた名店「エル・エ・リュイ」(彼女と彼)に行くことにした。その店はその頃の日本では私は聞いたことのない種類の店である。即ち店ではショウもやっていて出演する全員が女性、又は男装の女性で、接客するギャルソンヌギャルソンの女性形)も全員ネクタイをした女の子であって、この子たちと客は踊れるし、バーテンまで皆女性である。これじゃタカラヅカのクラブ版じゃないか。その通りで男の客は全く無視されて白けるか、マダム(日本のママ)にやんわりと場違いをさとされて退場するしかない。

 甲・花の二人は入った時こそびっくりしていたが、やがてすっかり歓待されて雰囲気になじみ楽しんでいる様子。 私は判然とつまらない様子をするのも野暮だし、二人が今評判のアルハンブラ劇場のタカラヅカの出演者であることをマダムに告げると、マダムは未だ見ていないけれど店の女の子たち

と必ず行くと大乗気であった。店のショウはそれなりに楽しめ、中でもメインの歌い手フレデリックはスラリと背の高い宝塚の男役にしたらピッタリという人で歌も中々良く、この店をぎりぎりの所でキワモノでなく品のある店にする風格を備えていた。

「みんなに言っちゃ駄目だよ」と、私はそれでも甲・花2名に別れ際念を押した。それがだ、わずか二日後のこと、組長さんの美山しぐれさんが怖い顔をして私のところへ来た。「何やら面白そうな店へ、若手ばかり連れて行ってるみたいやね。私らも連れて行きなさいよ」あの2人しゃべったな。仕方ない。私はその後組長さん始め年かさのお姐さんたち4人ばかりを又「エル・エ・リュイ」に連れてった。入った瞬間私は我が限を疑った。宝塚の子達が店中にあふれている。その数十二、三名みんなおおはしゃぎた。 マダムが満面の笑みで私の所へ来た。「あれから毎晩こんな状態よ。私達も楽しいし、悪いようにはしないから心配しなさんな。私の店は変な男が来ない分安心して遊べるから大丈夫よ」

 あれからったってまだ3日程も経っていない、私は改めてタカラヅカの情報力と好奇心のたくましさ、団結力を思い知った。

 そして1日2日経って開演前に今日の入りはとカーテンのすき間から客席を見渡すと、あらら居た居た一番前の席に並びで、「エル・エ・リュイ」の面々がマダムとフレデリックを真中にズラッと7、8名。総見だ。それはいいけど今9時店はどうしてるのだろう。余計な心配をしたが、とにかく店の主力うち揃ってお出ました。みんな上気しですさまじいおしゃべりに興じている。終演後私は出口の所で一行を待った。出て来たなりにマダムに抱きつかれた。泣いている。フレデリックも他のみんなも泣いている。「素晴らしい。そんな言葉でとても言い表せないわ。こんなショウを見たのは生まれて初めて」後は泣いて声にならない。 フレデリックは泣いたまま何度もしゃがみ込み、立っていられない。フレデリックはスーダン(真幌志ぶき)の歌に、マダムは甲ちゃん(にしき)の踊りにとりわけ圧倒され、もう居ても立ってもいられない様子。みんな全員の歌唱力ダンスカに完全に魂を奪われ、マダムは「今晩も店に誰か来てくれるかしら、私達はこれから毎晩これを見に来ると決めたの」驚いたことにその言葉通り、彼女達は毎晩来た。どうやってチケットを手に入れるのか一番前の席に毎晩ズラリと並んで熱狂的な拍手を送る。毎晩のようにではない、文字通り毎晩だ。これはもう日本の熱烈なファンの会の幹部たちと変らない。 これに応えて宝塚側も毎晩「エル・エ・リュイ」に行った。真帆志ぶき自身も行ってフレデリックと親しい友達になった。 結局一度も行かなかった人達は殆ど居ないという状態で、ありきたりの観光スポットをみんな見尽した後、毎晩の舞台で思い切り燃焼したあげくに、癒しを求める生徒達の神経を休める丁度いい安全な店としてこの店がうまくフィットしたということか。

 そしてパリ公演の成功は誰の目にも明らかとなった。劇場は3階まで満席の状態が続き、テレビ各局は競って報道し、新聞週刊誌はこぞって特集を組んだ。最下級生の若手の彩、千夏記は、最大手のパリ・マッチ誌に数ページに及ぶ特集を組んで大きな写真数枚とともに紹介された。これ等は短い期間の現象としてパリでは異常なことである。

 そして私が感嘆したのは宝塚乙女達の恐るべきスタミナである。朝十時頃起きてブランチを食べ、昼間身体があいていれば買物観光にフル出動し、取材があれば時に振袖姿でこなし、夕方軽食をとって9時から12時迄の公演に元気いっぱい歌いまくり踊りまくり、後は倒れ伏すと思いきや、私を取り囲んで「ボワート・ド・ニュイ」(“夜の箱”パリでは夜中の遊び場クラブやバールの類をこう称する)に連れて行けとせまる。 案内人の私の方がスタミナ切れでフラフラだった。

 結果「エル・エ・リュイ」は夜のゴールデンタイムに、マダムも看板の歌い手も主だったアーティスト数人も空っぽのこれも異常状態が焼き、マダムは私に「もう私達駄目、タカラゾカの居ない人生(ラ・ヴィ)なんて考えられない。でも公演はやがて終るんだし、あの子達は日本に帰る。あとは空虚だけが残るんだわ」海千山千のパリのボワート・ド・ニュイのマダムが、真剣な顔で訴えた。

 乙女達の出発の日のオルリー空港は大変だった。生徒達自身がみんな泣きくずれ、帰りたくないと泣き叫んで手すりにしがみつく千夏記のようなのも居たし、マダムもフレデリックも送りに来て、フランス人には珍しく人前で身をよじって泣いていた。1965年のパリは、未だ人と人との関係が密で、それがこの街を忘れ難く離れ軽いものにしていた。

 何年か後仕事で一寸パリに寄る用事があって、みんなその後どうしているかとモンパルナスに足を延ばし「エル・エ・リュイ」を訪れてみた。店のあるはずの小道は暗で店は跡形も無く、道路が凍っていた。

 私が連れ歩いて評判となった金髪のドイツ娘は、タカラヅカ乙女たちにかまけて毎日午前何時にしか身の空かない私にあきれ白けてとっくの昔にシュツットガルトに帰ってしまっていた。私は宝塚公演が終ってから3月程経って、3年に及んだパリ滞在を切り上げて、日本に帰り東宝に復社することに決めた。

 金髪娘の話は、私が舞台監督として宝塚の東京公演に付くたび、先輩から後輩へと語り継がれ、生徒の中で私に興味を示すタカラジェンヌは居なかった。

#演劇 #プロデューサー #タカラジェンヌ #タカラヅカ #宝塚

井上ひさし「遅筆堂」へ一言

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(6)ー(悲劇喜劇2018年7月号)

 井上ひさしには文句がある。 直木賞受賞の巨匠に対して畏れ多いかも知れないが、長年積りに積った文句だ。一度は言わしてもらいたい。「遅筆堂」などと本人は洒落のつもりか知らないが、私はこれを見るとムラムラと怒りが込み上げて来る。私も井上ひさしの「遅筆」(要するに注文した原稿が書けないこと)の被害者なのだ。

 現場を知らない批評家や配者は、半分からかい、半分笑い話として、またあの井上ひさしがやってると、まともな批判をしたのを私は見たことがない。現場は大変なのだ。 本が遅れたり、まして初日に間に合わなかったりした。「運筆堂」本人だって本の遅れの一番の被害者、大工さんや絵描きさん、それにも増してかつら・床山さん、衣裳さん達に一言でも謝罪したのを聞いたこともない。一番の被害者は役者たちにも増して彼等裏方さんたちだ。初日に間に合わせる為に幾晩も徹夜して、目の下に隈を作った床山の青さんや衣裳のハルちゃんたちに井上さん、どう言い訳し謝まるんですかい。

 結果としてそれらの責任は全部プロデューサーが引き受けることになる。どだい何処の馬の骨か分からないあんな作家に本を書かせたのは中根ちゃんだろ。

 その頃、つまり井上ひさしが「日本人のへそ」を書いて劇作家として注目され出した、私は東宝演劇部プロデューサーとして、主に喜劇を手がけて若手の注目株だった。菊田一夫はまだ存命で、糖尿病を患っていたが、東宝演劇部をいてその権威は絶頂期にあり、帝劇は開場し芸術座は客が付いて大入りだった。宝塚劇場は老舗の小屋として宝塚歌劇と長谷川一夫、それに年に二本位の喜劇公演で繁盛しているという具合で、東宝は全体として勢いがあり、その若手プロデューサーというのは業界で一寸したものだった。

 その一寸したプロデューサーとしては、この時会社から宝塚劇場の喜劇公演を命ぜられ張り切って仕事に臨んだ。 菊田一夫がアチャラカ喜劇を書くのを良しとしなくなって、東京の喜劇は全体として作家難に陥っていた。私は東京喜劇に活を入れてその復興の流れを作りたかった。三木のり平を座頭とすとその公演に、私は古今亭志ん朝や財津一郎など当時の若手を結集させて座組みを作った。二本立ての一本は三本のり平の当り狂言である「俺はお殿様」、もう一本の「前もの」に新作喜劇で新風をとねらいを定めたのが井上ひさしだった。「テアトル・エコー」の井上戯曲の公演は初期の頃から欠かさず見ていたし、テレビの「てんぷくトリオ」のコントなども熱心に見ていた。井上ひさしに、小劇場の作家に、キャパニ千七百の宝塚劇場の芝居を、という不安は一抹あったが、そこは勢いというもので、新作を一本書き下してもらうことにした。私の注文に井上ひさしは大層喜んだ。喜劇の新作ならぬ悲劇がここに始まった。

 書けないのである。何度催促しても、今ちょっと考えてる所でとか、なかなか構想がまとまらなくってとか、危機線上の1カ月を切っても一行も出てこない。 菊田一夫の場合、大道具や衣裳かつらなどの製作の都合を考えて、作品の大筋、各場面の構想は早目に指定してくれる。台本、つまり芝居のセリフそのものが舞台稽古までずれ込んでも、役者たちが一晩二晩必死のセリフ覚えをすれば、上演に差しつかえることは無い。大劇場の場合の要諦はここだ。    

 井上ひさしの場合、何をテーマにどんな時代設定で芝居が進行するのか ゼロなのだ。題名すら決まってない。初日迄一週間を切るぐらいになると、事に慣れている東宝演劇部でもさすがに話題になって私は呼び出された。菊田専務も臨席の製作会議だった。私は散々に怒られた。大劇場に書いた経駿のない新人作家に新作を書かせるという無謀について。 菊田一夫は半分ニヤニヤ笑いながら言った。「俺もなあ他人のことは言えないけど、どうしても何も書けないことはあるんだよ。そういうときはな、昔から狸ものをやるんだ」 「ヘっ?あのポンポコの狸ですか?」 「そうだよ狸が夜中に出て来て人間を化かしたり色々する。狸は親分も居るし子分も居る。人数を使える。場面も寺の境内とかでいけるだろ」

 かくて題名が決まった。「満月祭ばやし」。狸ばやしじゃあんまりストレートだってことで「祭ばやし」。この作品は井上ひさしの戯曲全集「井上ひさし全芝居」に題名すらのっていない。

 私は「満月祭ばやし」を案に翌朝早く市川の井上宅に乗り込んだ。先代夫人の好子さんが出て来た。全然意外そうな顔もせず、満面の笑みだ。何がそんなに嬉しいのだ。「東宝の中根です」「あら中根さん、丁度今前半が上がる所ですよ。あと一寸だから昼には私お届けしますよ。面白いのよ、少し読んだけど、私笑っちゃった」これで引き下がる程私も素朴ではない。「あと一寸ならここで待ってますから」玄関口に座り込んだ。 「あらやだ中根さん、そんな所にお座りになって。どうぞとにお上り下さい」茶の間に通された。さして広くない井上家、本人は、本人はどこに居るのだ。 「井上はそのふすまの向う側で今書いてますから」ふすまをチラっと開けた。本人が見えた。後姿だが本人に違いない。まさか替え玉を使うまではやるまい。私は腹をくくった。 何時間でも夜まででもここで居催促だ。いいタイミングで好子夫人がまた話しかけた。「本人ああして書いてますから、どうぞゆつくりなさって、て云うのも変か、でも中楓さん朝御飯またじゃないの、食べてらっしゃいよ」この夫人は確か浅草生まれ育ち、こっちも下町下谷だから、こううまいこと畳みかけるように下町弁でやられると弱い。乗せられてスキを突かれた。それにたしかに朝飯でヌキで来たから腹も減っている。夫人はお勝手にツイと立ち上り、出された茶が空腹に沁みた。

 こっちもそのスキを突かなきゃと、ふすま越しに声をかけた。「井上さん、井上さん、お邪魔でしょうが如何でしょう。 出来た分だけでも見せてくれませんか」ややしばらくしてくぐもった声で「ハーイ」返事が来た。 ふすまを開ける。やっと会えた、少なくとも、本人だ。「どうですか調子は」「いやそれが......」と机に最敬礼をして頭をぶつける。「それがまだとりかかれなくて......」 「えっ?」何と一行も書いてないのだ。私は暗然として机の上を見つめた。何やら一覧表の様な年表の様な大きな紙が横一杯に広げられている。「いやいつもはこうしてね、想を一覧表にしてくんですけど......」私はのぞき込んだ。何だ。他の作品の一覧表しゃないか。私は見切った。「満月祭ばやし」に東宝として決めたこと。それが菊田一夫自身の助言であること。もう全て部門の時間切れが過ぎていてそれしか方法は無いこと。 今晩から東宝指定の旅館に所謂カンヅメになってもらうこと。「満月祭ばやし」には東宝の作家が一人介添として付き切りになること。

 それから満月祭ばやしの具体的な説明をして、遺憾やる方なく席を立とうとしたその時また調子よく好子夫人が声をかけた。「中根さん、ごはんどうぞ、食べてって下さいね」意地汚く食ってしまうのが疎開世代の私の卑しく意気地の無い所だ。食いものを出されると、この場合白い御飯と味噌汁の強烈に旨そうな香りが、厳然たる東宝のプロデューサーの威信をみじんに砕いて、まことにさもしく、玉葱の味噌汁や漬物の茄子の色や味を誉めたりして井上家訪問を終える始末となった。

 でも結果としてその日の夕方からのカンヅメで、東宝の作家山崎博史の介添もあって「満月祭ばやし」は舞台稽古三日間の初日にすべり込み、役者たちを始め大方の大不評を浴びながら本当の初日は驚いた。各方面の怒りうらみは当然プロデューサーに向った。楽屋のれんからヒョイと顔を出した古今亭志ん朝さんが云った。 「中根さん、プロデューサーてのは英語でうそつきって意味なんですね」又ヒョイと顔が引っ込んだ。あれから50年近く経つがあれは忘れられない。

 井上さんは山崎という東宝の人が横に付いてどんどん自分で筆をすすめ、これで行きましょうみたいな本の作り方が悔しかったに違いない。舞台稽古の後半二日間、宝塚劇場の舞事務所に詰め切って台本を書き直し、これで是非やって下さいと申し出た。作家本人の手直し版は大した変りのない駄作だった。しかし私は三木のり平をはじめ役者たちを説得し新しい脚本で本読みをやった。読み終わったあと、何とも気まずい沈黙が訪れた。そして財津一郎がコピー用紙を空中に放り投げ大声で叫んだ。「真面目にやったれや!」 コピー用紙がヒラヒラと空中を舞い、新しい台本はそのまま消えた。

 「満月祭ばやし」が終って2カ月程しただろうか。東宝のデスクに居た時、井上ひさしから呼び出し電話を受けた。向かいの帝国ホテルのコーヒーショップに居るからお茶でもということだった。「よくこんなヒマがありますねえ」と嫌味を伝ったが彼はいやいやと受け流し話題を変えた。その頃寅さんが当たって大スターになった渥美清が、芸術座で一本やりたい意向があるとのこと。 どうでしょうねえと云ったがその時は自分が脚本を書きたいというのを言外に滲ませていた。

 そして話題を変えて唐突に云った。「中根さん直木賞おとりになりませんか。今チャンスなんですよ。と云うのはね......」

 2つとも私の日常をあまりに離れた話なので、これといった反応もせず、そのまま別れたが、井上家の朝食と違い後味がひどく悪かった。 渥美清は手をかけたとたんに起るだろう松竹との戦争を思うだにおっくうだし、宝塚劇場であれだけの負の実績を残したあと向側の芸術座で同じ作家というのもあり得ぬ話だし、直木賞がどうとかしたというのも物書きをやるにはあまりに忙しい日常で、全く関心のない話題だし、結局後に残ったのはこの作家のかくされた上昇志向がもたらす一種のむなしさだった。

 私はこの日始めて、井上ひさしという人を好きになれなくなった。

 そういえば「満月続ばやし」は『井上ひさし全芝居』にもっていない幻の作品になったが、生原稿は返しそびれてま私の自宅のどこかにまぎれこんでいる筈だ。

#演劇 #プロデューサー #井上ひさし #劇作家