中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

タカラヅカの人々 パリ篇

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(7)ー(悲劇喜劇2018年9月号)

 宝塚の人を書くとなったら、とても一人や二人に焦点を当でて書くことなど出来ない。このひとびとはみんないくつになっても、結婚してもしなくても、やめて引退してもしなくでも、みんな所謂タカラジェンヌのまんまどこかにその気を残していて匂いを消さない。

 私が初めて宝塚に接して、その毒気と云うか、香気に当てられたのはこちらも二十代半ば、所もあろうにフランスはパリで1ヶ月の公演に付き合ってのことだから堪らない。正気に戻るのはその3ヶ月後にパリ留学を打ち切って日本に帰ってからだった。時は1965年、いい時代だった。チェ・ゲバラはヒーローで、ビートルズは人気絶頂だった。私はブランス政府の給費留学生としてパリにもう三年近くも居て、そろそろ里心も付き始めると同時にこのまま一生フランスの演劇界に身を沈めようかとか、あぶない時期に宝塚の52名の日本乙女がやって来たのだ。劇場はレピュブリック広場にした今は無きアルハンブラ劇場。古い劇場でフランスの名のある芸人でここの舞台を踏まなかった人は居ない。ホテルは劇場から1分の所にあり、乙女たちは三人一部屋でギッシリ詰め込まれていたが、私は同じホテルに部屋をとって宿泊した。かくてまるまる1カ月の宝塚との付き合いとなった。

 公演は数少ないマチネーを除き、夜9時に開演 終演は12時である。フランス人は大体夕食をとってからこんな時間に舞台を楽しむのだ。

 この宝塚パリ公演は手伝った私の目から見ても掛値値無く大成功であった。 オペラ座(私はそこで研修していた)のバレエ以外、かったるいレビューのダンスしか見たことのなかったパリの観客は文字通り熱狂した。歌唱では那智わたると主演の真幌志ぶきがアズナヴールのレパートリーを歌って本人よりいい歌になっていると云われ、ダンスでは若かった甲にしきが素晴らしいリズム感と、関節が無いのではないかと云われた柔軟性で、現代ダンスを踊ってブラボーの海となり、何よりも52人の一糸乱れぬ緊迫した舞台が、ショウとも思えぬ程のショウだと好評を博した。宝塚はこの1カ月間のパリ公演で、パリの芸能の歴史に記念碑的な足跡を残したと云っても過言ではない。

 私のこの公演での役割は、すでに所属していた東宝演劇部からの口利きで、通訳兼舞台の雑用係、舞台監督助手だった。しかしことは劇場内だけではとても済まない。一応フランス語が達者ということで生徒達のテレビ出演、新聞雑誌のインタビュー、神戸と姉妹都市のマルセイユ市への親善訪間などあらゆる公的行事、そして一番大変なのが生徒達の夜の私的バリ案内だった。何しろ毎晩十二時終演、それから大急ぎで化粧を落して着替えてったって真夜中は真夜中だ。 いくら花のパリと張り切っても開いてるレストランにしろクラブにしろ限りがある。 「清く正しく美しく」なんだからあんまりあやしげな界隈や店には連れてけない。事故でもあったら大変だ。私は毎晩神経を張りつめてエスコートした。毎晩?そう毎晩なのだ。相手は代わっても毎晩だ。この夜のツアーは人気を博し、遂に四・五日前から私の夜の身柄は申し込みとなった。只でさえ私の人気はあった。東宝の社員、フランス語ペラペラ、若い、背は低いが美少年。慣れぬ外国でたよりにされない訳がない。しかし物事はそううまく行くとは限らないのであって、公演半ばにならぬうちに、当時私が付合っていたドイツ人のカノジョが、心配のあまりパリに来てしまった。当然同じホテルに泊まるし、劇場にも来るし、来た翌日にはもう殆どの生徒にこの事実は知れ渡るところとなり、私は開き直って公然の事実として、このやたらと目立つ金髪のカノジョを腕を組んで連れ歩くこととなった。 結果宝塚と私とのあったかも知れぬほのかな恋は消滅した。

 それはともかくある夜のこと、甲にしき、花久仁子の二名夜のガイド当番として案内することになった。二人の注文は、食事は公演前に済ましたからもういい、どっか日本に無いような珍しい面白いとこへ連れてけ、ということ。 私は迷ったが決めた。よく東宝のパリ訪問客などを案内して喜ばれる、パリのかくれた名店「エル・エ・リュイ」(彼女と彼)に行くことにした。その店はその頃の日本では私は聞いたことのない種類の店である。即ち店ではショウもやっていて出演する全員が女性、又は男装の女性で、接客するギャルソンヌギャルソンの女性形)も全員ネクタイをした女の子であって、この子たちと客は踊れるし、バーテンまで皆女性である。これじゃタカラヅカのクラブ版じゃないか。その通りで男の客は全く無視されて白けるか、マダム(日本のママ)にやんわりと場違いをさとされて退場するしかない。

 甲・花の二人は入った時こそびっくりしていたが、やがてすっかり歓待されて雰囲気になじみ楽しんでいる様子。 私は判然とつまらない様子をするのも野暮だし、二人が今評判のアルハンブラ劇場のタカラヅカの出演者であることをマダムに告げると、マダムは未だ見ていないけれど店の女の子たち

と必ず行くと大乗気であった。店のショウはそれなりに楽しめ、中でもメインの歌い手フレデリックはスラリと背の高い宝塚の男役にしたらピッタリという人で歌も中々良く、この店をぎりぎりの所でキワモノでなく品のある店にする風格を備えていた。

「みんなに言っちゃ駄目だよ」と、私はそれでも甲・花2名に別れ際念を押した。それがだ、わずか二日後のこと、組長さんの美山しぐれさんが怖い顔をして私のところへ来た。「何やら面白そうな店へ、若手ばかり連れて行ってるみたいやね。私らも連れて行きなさいよ」あの2人しゃべったな。仕方ない。私はその後組長さん始め年かさのお姐さんたち4人ばかりを又「エル・エ・リュイ」に連れてった。入った瞬間私は我が限を疑った。宝塚の子達が店中にあふれている。その数十二、三名みんなおおはしゃぎた。 マダムが満面の笑みで私の所へ来た。「あれから毎晩こんな状態よ。私達も楽しいし、悪いようにはしないから心配しなさんな。私の店は変な男が来ない分安心して遊べるから大丈夫よ」

 あれからったってまだ3日程も経っていない、私は改めてタカラヅカの情報力と好奇心のたくましさ、団結力を思い知った。

 そして1日2日経って開演前に今日の入りはとカーテンのすき間から客席を見渡すと、あらら居た居た一番前の席に並びで、「エル・エ・リュイ」の面々がマダムとフレデリックを真中にズラッと7、8名。総見だ。それはいいけど今9時店はどうしてるのだろう。余計な心配をしたが、とにかく店の主力うち揃ってお出ました。みんな上気しですさまじいおしゃべりに興じている。終演後私は出口の所で一行を待った。出て来たなりにマダムに抱きつかれた。泣いている。フレデリックも他のみんなも泣いている。「素晴らしい。そんな言葉でとても言い表せないわ。こんなショウを見たのは生まれて初めて」後は泣いて声にならない。 フレデリックは泣いたまま何度もしゃがみ込み、立っていられない。フレデリックはスーダン(真幌志ぶき)の歌に、マダムは甲ちゃん(にしき)の踊りにとりわけ圧倒され、もう居ても立ってもいられない様子。みんな全員の歌唱力ダンスカに完全に魂を奪われ、マダムは「今晩も店に誰か来てくれるかしら、私達はこれから毎晩これを見に来ると決めたの」驚いたことにその言葉通り、彼女達は毎晩来た。どうやってチケットを手に入れるのか一番前の席に毎晩ズラリと並んで熱狂的な拍手を送る。毎晩のようにではない、文字通り毎晩だ。これはもう日本の熱烈なファンの会の幹部たちと変らない。 これに応えて宝塚側も毎晩「エル・エ・リュイ」に行った。真帆志ぶき自身も行ってフレデリックと親しい友達になった。 結局一度も行かなかった人達は殆ど居ないという状態で、ありきたりの観光スポットをみんな見尽した後、毎晩の舞台で思い切り燃焼したあげくに、癒しを求める生徒達の神経を休める丁度いい安全な店としてこの店がうまくフィットしたということか。

 そしてパリ公演の成功は誰の目にも明らかとなった。劇場は3階まで満席の状態が続き、テレビ各局は競って報道し、新聞週刊誌はこぞって特集を組んだ。最下級生の若手の彩、千夏記は、最大手のパリ・マッチ誌に数ページに及ぶ特集を組んで大きな写真数枚とともに紹介された。これ等は短い期間の現象としてパリでは異常なことである。

 そして私が感嘆したのは宝塚乙女達の恐るべきスタミナである。朝十時頃起きてブランチを食べ、昼間身体があいていれば買物観光にフル出動し、取材があれば時に振袖姿でこなし、夕方軽食をとって9時から12時迄の公演に元気いっぱい歌いまくり踊りまくり、後は倒れ伏すと思いきや、私を取り囲んで「ボワート・ド・ニュイ」(“夜の箱”パリでは夜中の遊び場クラブやバールの類をこう称する)に連れて行けとせまる。 案内人の私の方がスタミナ切れでフラフラだった。

 結果「エル・エ・リュイ」は夜のゴールデンタイムに、マダムも看板の歌い手も主だったアーティスト数人も空っぽのこれも異常状態が焼き、マダムは私に「もう私達駄目、タカラゾカの居ない人生(ラ・ヴィ)なんて考えられない。でも公演はやがて終るんだし、あの子達は日本に帰る。あとは空虚だけが残るんだわ」海千山千のパリのボワート・ド・ニュイのマダムが、真剣な顔で訴えた。

 乙女達の出発の日のオルリー空港は大変だった。生徒達自身がみんな泣きくずれ、帰りたくないと泣き叫んで手すりにしがみつく千夏記のようなのも居たし、マダムもフレデリックも送りに来て、フランス人には珍しく人前で身をよじって泣いていた。1965年のパリは、未だ人と人との関係が密で、それがこの街を忘れ難く離れ軽いものにしていた。

 何年か後仕事で一寸パリに寄る用事があって、みんなその後どうしているかとモンパルナスに足を延ばし「エル・エ・リュイ」を訪れてみた。店のあるはずの小道は暗で店は跡形も無く、道路が凍っていた。

 私が連れ歩いて評判となった金髪のドイツ娘は、タカラヅカ乙女たちにかまけて毎日午前何時にしか身の空かない私にあきれ白けてとっくの昔にシュツットガルトに帰ってしまっていた。私は宝塚公演が終ってから3月程経って、3年に及んだパリ滞在を切り上げて、日本に帰り東宝に復社することに決めた。

 金髪娘の話は、私が舞台監督として宝塚の東京公演に付くたび、先輩から後輩へと語り継がれ、生徒の中で私に興味を示すタカラジェンヌは居なかった。

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