中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

朝倉摂さん : 摂ちゃん 摂バア バアルフレンド  

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(5)ー(悲劇喜劇2018年5月号) 

 朝倉さんは著しく評価の上下する人だ。従ってその名も動詞変化の様に変化する。

 「摂ちゃん」は摂ちゃんの評判がそんなに悪くない時だ。そんな時は持前の人柄が物を言って、憎めないお嬢さま育ちの摂ちゃんで通っている。憎めないのだこの人は。陰でののしったり悪口を言うスタッフは居ても、最終的にちゃんを憎む人を見たことはない。

 ではどうしてそれが「摂バア」、或は時に「バアさん」、更に「ババア」に変化するのか。本人はそもそも大変に年齢を気にして絶対に歳を云わないし、ツアーコンダクターに迄パスポートは渡さなかった。陰での話ではあるが、ここ迄になるのは埼玉出身で思い切り普段から口汚い蜷川幸雄や、演出部の口の悪い村井や山田なんという輩が、摂バアの仕事振りのあまりのだらしなさに怒って発する呪詛の声である。 公平を期する為に吐いてしまえば、私自身もこの呪詛の声にプロデューサーとして和することも、たまに、いや時々、いえまあしばしばあったことは認める。

 旅先で偶然村井が摂バアのパスポートをのぞき見し、62才であることを発見してその頃全員四十代以下だった皆々驚愕して以来イタリア語で62というセッサンタ・ドゥーエが摂バアの呼名だったこともある。実際ちゃんが「バア」になる時はけっこう頻繁にあった。後年期界の巨匠みたくなってしまった愛すべき摂ちゃんもその当時、私が盛んに仕事を一緒にした頃は、唖然とするような大トチリを頻々とやってくれたものだ。忘れられない設計ミスは所もあろうに生れて初めての海外公演 夢の実現した『王女メディア』、ギリシア、アテネのリュカペトス山上の野外劇場で発生した。 セットといえばそれ一つしか無い、メディアの家の屋根だった。屋根は八角形の奈良の夢殿に似て、タイのお寺の様に軒先が鋭く反っていた。摂ちゃんのデザインである。早くからデザイン画とデザインのパーツの画をギリシアの大道具会社に送り、ギリシアの大道具さんに作ってもらう手はずだった。

 この間私は一生の分れ日とも云うべき困難の中に居た。絶対的な資金不足、初めての海外公演アテネの夏のフェスティバル参加という経験不足から来る、アルプス初登頂の様な恐怖。所属していた東宝演劇部の海外公演に対する無理解。会社を辞める辞めない迄行ったトラブル。最後は松岡社長が演劇部のフロア迄降りてきて、七百万円の出資と公演そのものにOKを出すことによってやっと成立するという大ドタバタ劇に、ギリシアに着いた時には期待感もそこそこにもう消耗の極。疲労の果てに、セットはうまく出来ただろうか、とギリシア側に頼んだ唯一の不安要因にドキドキしながら一日遅れで現場に着いた。着いた私の胸に一直線に走り込んできたのが摂ちゃんだ。泣いている。童女の様に。「蜷川がねえ、あたしをいじめるんだよ、ヒック」「どうしたんです。 なんかあったの?」「道具がねえ、うまくいかないんだよ」 「えっ!」 やっぱり。ギリシアの大道具はあてにならないと思ったが、見ればセットは柱が建っているだけで屋根が無い。いやな予感がした。

「いやね、屋根が、屋根がうまくいかないんで、川があたしをいじめるんだよ」また泣く。「屋根がどうしたんです?」泣いていてらちが明かない。蜷川がいじめるとか、泣いたりしてる場合じゃない。それからギリシアの大道具の親方に話を聞いたらとんでもなかった。日本から送ったちゃんの画も見せられた。そしたらパーツで描かれた画の通り忠実に彼等は作った。作りながら、どうもおかしいと親方は思ったという。 でも日本の家だから、それに日本人が設計したものだからと思って作ってしまったとのこと。パーツの画の屋根の部分図は軒先のとんがりが湾曲して反りかえっている。

 その通り作ると屋根の軒先は何とぶっ違いになって、八角の軒は互いに合わず全体として屋根に作れない、ということだ。おわかりかな。何だ要するに全体の画と、パーツの画と違うことを描いた設計ミスじゃないか。ギリシアの親方は彫りの深い眉間に更に深いを寄せて申し訳なさそうに「デザイン通りに作ったんだが、いけなかっただろうか」 なんて云う。「いやあんたが悪いんじゃない、こっちが悪いんだ。なんとかする様考えるから」私はどんなに恥ずかしかったか。どんなに悔しかったか。 穴があったら入りたいとはこのことだが、穴に入ってる場合でもない。第一時間がない。もともとよれよれでここ迄来たが、疲れは十倍になった。私は軒先の反った分を切り落し、短かく平たい屋根になる様恥を忍ん親方に頼んだ。ギリシアの大工達が高いはしごの上で、余計な軒先をゴリゴリ切り、屋根を無理に合わせながら口々に何かののしっている。生れて始めての海外公演、夢のギリシア公演はその第一歩でケチが付き、軒先を切り落すノコギリのギコギコという音の伴奏で始まった。

 俄然誰ももう「摂ちゃん」なんて云わなかった。セッサンタ・ドゥーエも忘れられ、一夜にして「摂バア」に変った。蜷川幸雄は単に「ババア」といった。でもさすがにだれも面と向かっては云わなかった。 その中で一人だけ「摂ちゃん」を通して異彩を放っていたのが照明の吉井澄雄さんだった。かばうのだ。犯人を。自然の流れとして、摂バアは吉井さんの「バアルフレンド」だというのがみんなの共通認識となり定説となった。

 ともあれ反りのなくなった屋根は立ち上がり、吉井さんの照明合わせは何とか間に合い、そして『王女メディア』は歴史的大成功を収めた。摂バアは全然悪びれることなく、人手が足りない照明のスポットライトを「アタシは昔やったことあるからね」と受持ち、本物の照明さんのヒンシュクを買いながらもやってのけた。「バアルフレンド」説はこのことで益々裏付けられた。終演後の観客の大拍手に摂バアは意気軒昴で、「中根さんうまく行ったね、本当にやってよかったね」と喜んでくれた。観客のブラヴォーの声と共に怒りはいつの間にか消え、「摂ちゃん」に戻っていた。

「ギリシアでギリシア劇を日本人がやってこんなに当たるんだから、日本の評論家なんかあんなにひどいことを書いてこの客席の有様を見たらいいんだ」と私が云うと、「日本の評論家かい、あの連中は頭ん中に花が咲いてんだよ」 すっかり元に戻っている。私の胸で泣いたことなんかすっかり忘れている。

 帰国後しばらくしてどういう訳か摂ちゃんからブルゾンを貰った。 背中に世界地図が一杯に染め抜いてあって、ちゃんが着ていたのを私が誉めたことがある物の色違いだった。洒落たブルゾンで私は気に入り、何の気無しに着て歩いた。摂ちゃんと同じブルゾンの色違いを他ならぬ摂ちゃんから貰って嬉しそうに着て歩いていると、最初に目を付けて広めたのは他ならぬ吉井澄雄さんだった。「ギリシアの一件はこれでパアですか。こういう仲であったとはいやいや気付かずに失礼しました。『バアルフレンド』は以後中さんにおゆずしますから云々」参った。その後しばらく摂バアは中根のバアルフレンドと有楽町界隈でかまびすしく、私はブルゾンを着る機会を失った。

 私はその後永く摂ちゃんが亡くなる直前迄付合った。沢山の芝居を一緒にやった。仕事の上では困った人だった。ギリシアの様な事はその後も何度もあった。 「三文オペラ』 に出てくるバーカウンターは役者の背丈よりも寸法が高く、「バァさん」は稽古を見てたのか、とみんな怒り狂った。

 でも「近松心中物語』のような傑作も時にある。それで充分だった。十本の駄作も一本の傑作で帳消しになる主義だったから。

 それに摂ちゃんとは生まれた所が近く、言葉のなまりを同じくする親しみがあった。私は下谷、向うは谷中の生まれで、今は全く日常聞けなくなった江戸弁でお互い話せる楽しみがあった。今時「そりゃ一寸おいいん(多い)じゃない」とか「それじゃあんたすけない(少い)よ」とかウチのおばあちゃんが言ってたのとおんなしだ。でもひとが疲れ果てて午前3時に寝た時、午前7時に電話してきて「お早う朝倉です、どうだい世の中なんか面白いことないかい」なんてのはいつも腹立ってツンケンと電話切ったけど、あんなのはやめて欲しかったと今もなつかしく思う。

 亡くなってなんとも淋しいのは摂ちゃんだ。あの容赦のない他人の悪口、あっけらかんと明るい楽観主義、時にはおせっかいな親切、すべてが今の世の中に無くなってしまったものに思え、そんなものを丸ごとあの世へ持って行ってしまった摂ちゃんが、一時私のバアルフレンドと呼ばれたのを、名誉に思う。

#演劇 #プロデューサー #朝倉摂 #舞台美術