中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

アラン・リックマン 大きな優しいセント・バーナード犬

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(4)ー(悲劇喜劇2018年3月号)

 アラン・リックマンといえば、いつも大きなセント・バーナード犬を連想する。そう、あのハリー・ポッターに出てくるスネイプ先生だ。映画の印象とは違って、私が芝居で付き合ったアランは優しい大きな大人しい犬みたいだった。

 1991年のその頃私たちはロンドンで清水邦夫作、蜷川幸雄演出の『タンゴ・冬の終わりに』を上演した。 それ迄ロンドンで上演したシェイクスピアやギリシア悲劇と違って、日本の芝居、それも現代劇の英語を英国の俳優を使って無期限で上演するという究極の大冒険公演だった。経済的にも私の小さな会社 「ポイント東京」にとって重過ぎる重荷だった。しかも劇場は「ビカデリー劇場」という、ピカデリー・サーカスに面した本当の一流劇場。 失敗は許されない。私と蜷川さんはこの芝居に、その頃「ダイ・ハード」「ロビン・フッド」などの映画でスターになっていたアラン・リッチマンを起用した。英国流のオーディションである「インタヴュー」に現われた彼は、活劇映画の脇役という悪役イメージに程遠い大人しい物静かな紳士で、私はすぐにセント・バーナード犬をイメージした。しかし演技を披露する段になると、激しく情熱的かと思うと低い素晴らしい声でどこ迄も内省的になるなど、全く緩急自在で、履歴にはハムレット始めシェイクスピア作品も並び、私と蜷川幸雄は一も二もなく彼を主役にすることに決めた。

 稽古はロンドン郊外の地下鉄の駅から十五分も歩くという様な稽古場を借りて始まった。川幸雄はアランが付き人みたいな者を一切連れず、一人で地下鉄に乗って来るというのに驚いていた。アランは又、駅から稽古場迄の一寸遠いと丁場を、駅前にいつも止まっているタクシーに乗るのだが、必ず若い役者たちが何人か駅に着くのを待って、彼等を一緒に乗せて来るのだ。ロンドンのタクシー・ブラックキャブは六人までOKだ。

 稽古場ではいつも確たるリーダーシップを発揮し、個性のそれぞれ強いの役者たちを率いる堂々たる主演俳優だった。とりわけ個性の強すぎる女優シュザンヌがヒスを起こして大声で怒鳴り始めた時、竦んで動けなくなった蜷川の横に座っていた私に、気の利いた年配の役者が灰皿をさっと手波して、蜷川がこれを投げるようにと云った時も、アランは直ぐに大笑いし、その場をみんなのにぎやかな笑いで収めてしまった。

『タンゴ・冬の終わりに』はピカデリー劇場でオープンし、人気俳優アラン・リックマンの熱演も評判を呼んで、順調にすべり出した。私たち日本側のスタッフは蜷川幸雄、朝倉摂、吉井澄雄、本間明、小峰リリー、みんなでハーフ・ムーン街「フレミングス・ホテル」に泊まり、芝居がロング・ランになることを夢見て、日曜日になると来たるべき成功の日に必要となるはずの事務所を探そうと、ホテルのまわりの手近な不動産物件を、散歩がてら見て歩いたりしていた。そうなりゃ誰もがロンドンで泊まれるフラットも一軒必要だ。……

 栄光の日々を行手に望むそんな時芝居が始まって2週程したある日、たまたま東京に帰っていた私に、イギリス側の相方プロデューサー、セルマ・ホルトからファクスが送られてきた。ぺろんと一枚だった。

 なんとチケット販売会社「キース・プロウズ」が倒産した。ロンドン中の劇場がパニック状態で、もう閉めた所も何軒もある。『タンゴ・冬の終わりに』は直ちに中止すべきだ。一一驚愕。 狼狽。こんな事は予想だにしなかった。 どうしたらいいのだ。立ち直るのにしばし時間がかかった。

「キース・プロウズ」はイギリスのチケット販売会社。 日本の「チケットぴあ」をうんと大がかりにした様なものだ。殆ど全ての劇場のチケットを取り扱っている。ということはつまり、我等の『タンゴ』のチケット売り上げがまるまるキース・プロウズに持ち逃げされたということだ。しかもそのチケットを持った客は芝居を見に来るということだ。

 セルマは直ぐ閉めよう、明日閉めようとうるさい。 閉めてこっちは助かるかもしれないが、チケットを買った客はどうなるのだ。客に損をかけその上期待を裏切ることはできない。私は進退窮まった。

 そこへ翌日第二のファクスが来た。思いがけずもアラン・リックマンからだった。

「あなたの置かれた状況は察するに余りある。芝居を中止しなければならないというのも良くわかる。しかし私はこの芝居を愛しているし、この芝居にわれたことを誇りに思っている。何とかならないだろうか。あなたの立場に何の足しにもならないから知れないが、この際私はギャラは要らない。辞退する。 私のギャラ分の金を宣伝広報にでも使って、損を取り戻す様、少しでも客を入れてください」

 私は驚きの余り言葉を失った。役者が、しかも外国人の役者が、こんなことを言うのを聞いたこともない。日本の事務所では私のスタッフはみんな女性、 ファクスを取り巻いてみんなで泣いた。

 私は自分に出来る精一杯、3カ月先のひと区切り迄公演を続けることに決心した。

 ロンドンにとって返して劇場に駆け込み、アランの楽屋に飛び込んだ

「ギャラの事はいいよアラン。ちゃんと取ってくれ。あと3カ月しか続けることは出来ないけど。ご免なさい。少なくとも待を買った客に、これで損させずに芝居を見せることは出来るから」

 セント・バーナードがゴロゴロ唸るように低いやわらかい声で云った。

「ナカーネサーン。素晴らしい。まだこの芝居を続けられるんだね。 僕は金はいいんだ。 ハリウッドで稼ぐから。 ニナガワとの仕事で金を貰おうとは思わないよ」

 それから何年か経って、アランは映画を一本撮った。その映画を売り込みに日本にやって来た。老いた姉妹の日常を描いた味でデリケートな映画だった。

「何も事件は起らないけど、すべてが起る映画なんだ」 相変わらず物かで、つつましやかな男だった。 売り込みは成功しなかったが私は少し手伝って、それから彼の為に『タンゴ』当時のスタッフを集め、日本料理屋で夕食会を開いてあげた。話ははずみ、夕食会は盛り上がった。 『タンゴ』の同窓会だった。 アランは嬉しかったのか、日本酒をガブガブ呑み、何度も徳利のおかわりをした。

イギリス人には珍しく大いに酔っぱらって呂律の回らなくなったアランを私はタクシーに押し込んで「ホテル西洋銀座」に送って行った。ホテルに着く頃には本格的に酔っ払い、フロントで部屋のナンバーを私が確認し、 キイカードを持っているのを確認した時は歩くのも危なっかしい状態だった。ホテルのスタッフが肩を貸そうというのを、彼ははげしく大きな身ぶりでノーノーと云った。

 酔っ払った役者を取り扱うのは慣れているつもりだったが、何せ向うは身長180センチ以上の大男、私は160センチの小男だ。2階の廊下を部屋迄行く時には、完全に彼は歩けなくなって私は担いだ。担ぐのは私は力持ちだったからいいとして、肩で担いでも向うの長い足が余るのだ。 「ナカネサーンエクスキューズミームニャムニャ」低い声が何か云ってる。アランの上半身を担ぎ、下半は足をズルズル引きずる状態でやっとこ部屋にたどり着いた。その時にはアランは私の肩で完全に寝ていた。苦労してキイカードをポケットから探り出し部屋の中に担ぎ込んで、ベッドにほうり投げる様に寝かせた。 昔講道館で柔道をやってたから良かった。

 寝顔は大きなセント・バーナード犬にあらためてそっくりだった。可愛かった。靴を脱がせてやった。

 一寸の間しみじみ寝顔を見て、『タンゴ』のギャラの件を思い出していた。結局あの時ギャラは払ったのだったか。イギリス人でここ迄正直に酔っ払う人を私は知らない。それにしても稀に見る好い人だなこの人は。芝居をやっていると、自我の勝った、耐え難い様な人に会うことが多いけれど、本当に稀にこういう人に出会うこともある。

 アラン・リックマンと仕事をして本当に良かった。

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