中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

いわゆる「世界のニナガワ」

ー追悼・蜷川幸雄ー(悲劇喜劇2016年9月号)

 蜷川幸雄演出の芝居を海外で上演しようと考え始めたのは、1980年の『NINAGAWA・マクベス』の公演の頃だったと記憶する。蜷川を最初に大劇場の演劇に私が誘って、蜷川がそれに応じ結果自分の劇団を解散して、運命共同体のように二人三脚で仕事を続けて約10年が経っていた。『ロミオとジュリエット』『リア王』『ハムレット』とシャイクスピアを続け、更に『オイディプス王』『王女メディア』のギリシア悲劇と西洋の古典の現代劇化を意図的に進め、では日本の古典をと『近松心中物語』では近松門左衛門を現代劇化。評価としても興行的にも大きな転換点になった。『NINAGAWA・マクベス』はその翌年のことである。『マクベス』という陰気で客の入らない芝居を如何に興行的に魅力のあるものにするか、そして如何にそれ迄何処にもなかった『マクベス』にするかが課題だった。今迄どの演目もそうしてきたのだ。

 先づ全体を日本に置きかえることを考えた。それには黒澤明監督『蜘蛛巣城』の先例がある。しかし映画は戦国時代の日本。陰気で色彩に乏しいことに変わりない。そこで蜷川と相談し、安土桃山時代とすることにした。これなら黒澤映画とは異なる色彩、違う光の舞台になるだろう。そして、舞台全体を巨大な仏壇にするというセットプランが妹尾河童から示された時ひらめいた。我々はシェイクスピアをローカル化の極に置くことによって、逆に普遍化しようとしているのだ。蜷川の視線による『マクベス』ということだ。タイトルを『NINAGAWA・マクベス』にした。「蜷川」をローマ字にしたのも普遍化だ。『フェリーニのローマ』という映画の先例もある。批判や冷笑もあるだろうが、えゝ構うこたあないやっちまえと本人が一番難色を示したタイトルが付いた。

 初日が開いた。私は確信した。かねがね海外に作品を持って出たいと思っていたが、これならどこの国のどんな視線も耐え得る傑作だ。先ずロンドンに飛び、売り込みをかけた。全く冷たい反応。ナショナル・シアター、サドラーズ・ウェルス、オールド・ヴィック軒なみアウト。しかし意外や一番の難関は当の蜷川だった。海外になんか行きたくないと言うのだ。「あれは中根が勝手にやっているんだ。俺は外国になんか全然行きたくない」。説得に手間がかかった。歯医者に行きたくない子供をあやす様なものだ。構わず事を進め、最初の海外公演は人数の関係もあって『王女メディア』をギリシア、イタリアへ。分かった。海外へなんか行きたくないって言っていたが、本当は怖かったのだ。それも深い深層心理に於いて。本人はそれに気付いていなかった。しかしその恐怖感はもともと閉鎖的気質と相まってあとあとまで響いた。イタリアの公演地の市長が感激のあまり用意してくれた宴会の席へ「行きたくない、腹が痛い」と行く道すがらに云い出したあげく道ばたの茂みにしゃがみ込んでゲロ吐いたりして、遂に演出家が主賓の宴席をスッポかしたり。ディレクター、フランク・ダンロップの英断によりやっとの思いで扉が開いたイギリス公演の『NINAGAWA・マクベス』、ハレのエディンバラのフェスティバルの初日前、こっちは劇場の準備で死ぬ思いの三日連続徹夜のさなか、蜷川さんが部屋から出てこないと若い役者の注進でホテルに馳せつけてドアをたたくと、カーテンを閉め切って真暗な部屋から幽鬼の様な顔をのぞかせた。聞くと「昨日から何も食ってない腹が痛い」とのこと。怖くて表に出られなかったのだ。引っ張り出してホテルのカフェで”クラブハウス・サンド”を食べさした。美味しそうに食べた。手のかかる人だった。でも無理もない恐怖だったのだと思う。”アングラ演劇家”から10年、私の口車に乗って日生劇場や帝国劇場の演出家となり、遂に海外にまで強引に拉致されて、昼間からカーテンを閉め切るのもよく分かる。海外公演の本当の初日、外国ではじめての夜はローマでの『王女メディア』だった。ボルゲーゼ公園の四角い広場にしつらえた会場で周りは緑の茂み。初日の幕が切って落とされ私は客席に居たのだがどうにも落ち着かず。下手のワキの茂みに入ってのぞき見をしていた。何の為に?私も恐怖だったのだ。しばらくすると横からガサゴゾ人の気配がする。蜷川だった。二人共怖くて客席で坐っていられなかったのだ。顔を見合わせて苦笑いし、何故か暗がりの茂みの中で握手した。蜷川と握手したのはそれが初めてだった。

 ここ迄来ればしかし「世界のニナガワ」はもうすぐそこだった。2年連続の『王女メディア』のアテネ公演。狂乱の賞讃が渦巻いたヘロデス・アティコス劇場の翌年、エディンバラのフェスティバルでの『NINAGAWA・マクベス』が幕を開けた。世界の演劇市場へのパスポートをこのフェスティバルが蜷川に発行した。ロンドン・ニューヨーク……蜷川もまたその後5回に及ぶエディンバラ・フェスティバルでの公演で、このフェスティバルを征服した。腹痛はもう起こらなかった。

 一体何故蜷川の演出は世界に通用したのだろう。私が思うに、それは蜷川の演出が、一般的に云う演劇の演出というよりは、美術の世界で云う所の「インスタレーション」だったからである。蜷川自身も気付かぬうちに彼は大劇場での演出で、役者の動き、照明、セット、衣装、音楽のすべてを動員した壮大なインスタレーションの手法を身に付けた。それに吉井澄雄、妹尾河童、朝倉摂、辻村ジュサブロー、本間明、小峰リリーなどの面々の、初期の蜷川を支えたスタッフワークがあったことは特筆したい。だからこそ、『NINAGAWA・マクベス』の仏壇の中、紗幕の扉の後に花吹雪が舞い、その中で3人の魔女が舞い、2頭の馬が武装したマグベスとバンクォーを乗せて現われる、それ等の美の極致とも云えるシーンにエディンバラでもロンドンでも観客の大拍手が沸き、辻村ジュサブローの異様で華麗な衣装をまとったメディアとコロスの集団が、口から真紅のリボンを吹き出しつつ舞うのにアテネの7,000人の観客が等しくどよめいた。それ等のカタルシスの瞬間が生じたのだ。蜷川の成功した舞台はどれもこれもインスタレーションによるカタルシスを伴う。世界での評価はそこにキーポイントがあるのだ。海外公演はその後も『タンゴ・冬の終わりに』『ペール・ギュント』という2本の英国俳優で上演した失敗作をはさみ『近松心中物語』『デンペスト』『夏の夜の夢』と続く。2本の失敗作は正しくインスタレーションに失敗したのである。「蜷川さんは演出家というよりインスタレーション作家だよ」。私が云うと「そうかも知れねえなあ」。半ば以上同意していた。

 画家になりたくて芸大を受けたが入試に落ちた蜷川は、演劇の道を歩んでインスタレーション作家として大成した。「世界のニナガワ」と云われる意味はその大部分がインステレーションの大作家への賞讃であると信ずる。

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