中根公夫 愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔

早川書房「悲劇喜劇」連載中「プロデューサーの大遺言」

田中裕子ちゃんと一杯呑んだ話

ー愛しき面倒な演劇人 名プロデューサーが明かす知られざる素顔(2)ー(悲劇喜劇2017年11月号)

 田中裕子さんのことはずっと裕子ちゃんと読んでいる。私は役者と狎れあうタイプのプロデューサーではないのだが、裕子ちゃんは最初から裕子ちゃんだった。ある年の年賀状には葉書一杯に平仮名で「はる」とだけ書いてあった。こんな女の子をどうして田中さんなんて呼べよう。今回はタイトルの「面倒な演劇人」の「面倒な」は無しである。

 そういえば、『テンペスト』のエディンバラ公演の時も、モスクワ空港のトランジット休憩の折に、空港の粗末なバーでウォッカで乾杯したり、ロンドンで1日暇が出来た時はアンティーク・マーケットを一緒に冷やかして歩いたり、そういうプライベートな時間を共に過ごす事が時にあった。

 裕子ちゃんはそんな時まことに明るく優しく快活で、一緒にいるのが楽しい人だ。アンティーク・マーケットのとある店の、鳩が出てくる置時計が裕子ちゃんは大層気に入って買おうとしたのを私が引き止めて、間を置いてもう一度来ればもっと安くなるからと、近くのパブでビールと不味いメシを食って、もう一度その店に戻るとその間に時計は売れてしまっていた。私は申し訳なさに身を縮めたのだが、そんな時も裕子ちゃんは一寸がっかりしただけで、ちっとも不愉快な様子をせずに私の顔を立ててくれた。

 エディンバラでは毎日みんなよく呑んだ。さすがスコットランドの首府、ビールは旨いし何より地酒のモルトウィスキーを毎晩呑まずには居られなかった。

 ある日私は何人かの若手の役者たちに晩飯をおごった。バー・ローマというイタリア料理屋で、地元では名のある店、というより終演後の遅い時間開いているのがそこだけくらい。大きな店だが私たちはそこで入ってきたショーン・コネリーを見付け、若い役者たちは大騒ぎ。というのもコネリーはその晩我等の『テンペスト』を見に来たのを私は知っていて皆に教えてやったからだ。スコットランド人コネリーはエディンバラに住んでいて、仕事の無い時はゴルフ三昧という生活。てな事を教えてやって、私はエディンバラ・ファスティバルのディレクター、フランク・ダンロップに紹介されてショーン・コネリーと握手した。「わっ中根さんショーン・コネリーと握手したの、すごい」などなど我等の席は大盛り上がり。私はワインのほろ酔いに加え若い役者達に持ち上げられて少しいい気になっていた。みんなを泊まっているエディンバラ大学の寮までタクシーで送り、私は主な役者とスタッフだけが泊まっているドン・マリーホテルに帰って来た。そのホテルは19世紀の金持ちの大きな邸宅をホテルに改装したというもので泊り客は全部で20人くらい。何度か呼び鈴を鳴らし、やっとナイトポーターの老人ジョンが起きてきて、大きな鍵をガチャガチャ云わせて重い扉をギィーと開けてくれる。夜は12時頃、老人ジョンがもう仮眠してたのは明らかだ。それでも私はその日何か高揚していて、どうしても寝酒を一杯呑みたくなり、悪いなは思いながらジョンに頼んだ。「どうしても一杯モルツを呑んでから寝たいんだけどバーを開けてくれるかい」ジョンは一瞬の間の後無言でうなづいて、ゆっくりゆっくりロビーの一隅にしつらえてあるバーカウンターに歩みより、律気にバーテンダーの制服に着がえて、それからバーとロビーの壁の明かりを全部点けた。それでもその一つ一つ小さな明かりではもともと古風な屋敷の広間であるロビーは充分明るくは無く、うすぼんやりとした光の中で私は何と無く居心地悪いままカウンターに腰を下ろした。「スコットランドのモルツを一杯。それに良かったらあんたも一杯一緒に呑んでよ。好きなものをどうぞ」ジョンは愛想のない顔のまま、「じゃ私は黒ビールを」黒ビールを付合ってくれた。夜は更けホテルは森閑と静まり返っている。しばらく無言のままやはり無言のジョンと飲みかわしていた。私はその内にいたたまれなくなって無理に話し始めた。私は芝居のプロでデューサーで今度エディンバラにシェイクスピアの『テンペスト』を上演する為に来たのだとか。「こんな風に日本人がシェイクスピアをやる為にイギリスに来るなんていいことでしょ?ところであんたは日本に来たことはあるの?」酒の入った流れで聞かなくてもいいことを気になって聞いてしまった。70、80位のナイトポーターをやっているスコットランドの老人が、日本に観光に来ることもあるまいに。ジョンは重い口を開いた。ニコリともしなかった。「私は日本に行ったことは無いがそれに似たような経験はした」その時何故かしまったと思った。

「私は戦争が始まってすぐにシンガポールで日本軍の捕虜になり、45年に戦争が終るまで香港の日本軍捕虜収容所に居た。いい経験ではなかったね」えっ、まるまる戦争中4年間も、私はそれ切り言葉を失った。ジョンは更に続けた。「スコットランド連隊の私の部隊で香港で解放される迄生き残ったのは5人だけだった」うすぐらいホテルのバーで二人きりの酒。何と云って酒を飲み干し寝に行くからと逃げることが出来よう。静けさの中で時間は過ぎゆき、私に出来ることは黙って杯を重ねるだけだった。重苦しい時間が極点に達する時、とんでもないことが起こったように玄関のベルが鳴った。助かった、誰か帰ってきた。

 裕子ちゃんだった。どこかで遅い晩メシを喰って帰って来たのだ。私は文字通り助けを求めた。

「裕子ちゃん裕子ちゃん、お願いだから一杯だけ一緒に呑んで」裕子ちゃんはとなりに座ってくれた。その場の空気を察したかのように云った。

「どうしたのこんな遅くに」

 私は一部始終を話した。私がそのスコットランド連隊が何人居たか聞く勇気が無かったことも。裕子ちゃんも黙った。ジョンも黙ったままで居る。静かな深夜の時が過ぎた。突然裕子ちゃんが吐き出すように言った。「辛かったんだろうねえ」そして大粒の涙を落とし始めた。とめどなく。声も無く。ジョンがややもしてあわて始めた。「いや、いいんだいいんだ。もう昔のことだ。それに君達の世代の責任じゃない」裕子ちゃんは泣き止まなかった。そして泣きじゃくりながら左腕から自分の女物の時計を外し、ジョンの手におしつけた。「これ、貰って下さい。お願いだから」ジョンは今度はあわてた。

 時計はしばらく往復した後、結局ジョンは受けとってくれた。しばらく自分の腕に巻いてみたり、バーの明かりに透かしてみたり、女物の華奢な時計を扱い兼ねていたようだが、しまいにポケットに大事そうに収めた。

「もう一杯呑みますかお二人共」「もちろん。裕子ちゃんもね。黒ビールももう1杯呑んでよ」この場を救ってくれたのは涙でも時計でもない。ジョンにすぐに通じた裕子ちゃんの底知れぬ優しさだ。私はそう信じている。現にジョンは2杯目の黒ビールを呑んでくれたもの。

 2日後の早朝6時半、出発の朝だった。『テンペスト』は大当たりして大評判をとり、僕等はねむい眼をこすりながら上機嫌でバスに乗り込んでいた。私は人数を点検しながら、ジョンにさよならを云いたくて目で探していた。

 居た。ジョンが来た。夜勤明けの老人が元気に小走りに走りながら何か手にしてこっちに話しかけてくる。私はバスを降りて老人に走り寄った。「ジョンお早う。一言グッバイを言いたかったんだ」

 ジョンは大事そうに手にしていたのは、スコットランド地方紙の新聞評の小さな切抜きだった。「ここにあんた方の芝居のことが出ている。見てごらん絶賛だ。よかったね」彼はこれを私に渡したくて走り寄ってきたのだ。私は小さな紙片を裕子ちゃんに見せた。裕子ちゃんの顔に満面の笑みが広がった。あの誰でも幸せにする特別な笑顔だった。

 バスは走り出し、私と裕子ちゃんはジョンに手を振った。ジョンも笑いながらいつまでも手を振っていた。 

 ジョンの笑顔を見たのはその時がはじめてだった。

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